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『おもいでの夏』(Summer of '42)['71] 『ジェレミー』(Jeremy)['73] | |||||
監督 ロバート・マリガン 監督・脚本 アーサー・バロン | |||||
今回の課題作には、あまり風采の上がらない男子高校生の年上女性との思わぬ初体験を描いた'70年代作品が並んだ。 先に観た『おもいでの夏』については、むかし『マレーナ』を観た際に言及していた気がしたが、思い違いだった。有名な作品だから、タイトルは無論のこと、ストーリーにも場面にも覚えがあるものの、観賞記録に残っていないので、未見作品かと思っていたが、観ているうちに大学生になって上京した時分に早稲田松竹で観ていることを思い出した。 ドロシーを演じたジェニファー・オニールが記憶にある印象よりも更に若く美しかったので、当時、何歳だったのだろうと確かめてみたら何と二十三歳、若いはずだ。十五歳だったハーミー(ゲーリー・グライムス)とほんの八歳しか違わない。だが、あの年頃での八歳差は、大人と子供の違いくらいに大きいのは、ましてや高1男子と人妻では当然と言えば当然なのだが、今の僕の歳になって観ると、二人が揃って若く初々しく見えて、何だかとても眩しかった。ちょうど二人の年の開きの中程の時分に観たときとは、ドロシーの映り方が大きく違ってきていたように思う。 実家に帰るとの置手紙を残していたドロシーが「時が経てばあなたにもわかるでしょう」と書いていたことに対して、三十年後、四十路も半ばになったハーミーが「わたしには理解できなかった」と独白していたことが印象深い。このあたりをどう受け取ったかメンバーの意見を伺うのが楽しみだ。僕は、ドロシーの言葉が指しているのは、前夜自分からベッドに誘いながらも別れて実家に帰ることにした理由よりも、ハーミーをベッドに誘ったことのほうを指している気がする一方で、ハーミーが三十年前に「理解できなかった」と回想している出来事は、ベッドを共にした翌日に彼女が去って行ったことの意味と理由のほうだったような気がした。 ドロシーが針を落としたレコードから流れる主題曲のなかで静かに踊る二人の場面が実に好く、ドロシーを抱いて踊りながら涙しているハーミーでなければ、彼女もベッドにまでは手を引かなかったのかもしれない。涙を流した顔を見て、夫の戦死の知らせを受けた失意と孤独を一人では負い切れないやり場のなさをハーミーに束の間、預けたのだろう。事後、揃って天井を見つめつつ、自分のほうに顔を向けてきたハーミーに微かに笑みを返してベッドから抜け出し、ガウンを纏って表に出て行き、煙草を吸うドロシーの姿が心に残る。身を以て夫の喪失を実感しつつ、これからどうするか思案していたのだろう。そして、そんな彼女を観ながら、己が無力にひしがれていた感のあるハーミーが印象深い。翌日「初めての女も風と共に去りぬだ」と零していたのは、ミリアム(クリストファー・ノリス)と会えなくなったオスキー(ジェリー・ハウザー)であったが、ハーミーもまた、憧れのドロシーが相手のこの上ない初体験となるはずだったものから、オスキーとは比較にならない深い哀しみを得ていた気がする。 僕の高校時分には、ハーミーのような性春もオスキーのような性春もなかったが、ベンジー(オリヴァー・コナント)も含めた“猛烈トリオ(The Terrible Trio)”三人組を観ていると、まるで『青葉繁れる』['74]の稔、デコ、ジャナリや『博多っ子純情』['78]の郷、阿佐、黒木の三人組と変わるところなく、日米・時代を越えて普遍的な十代少年像であることを痛感する。 それにしても、笑顔の魅力的な美しいジェニファーだった。前年の『リオ・ロボ』['70]でもめっぽう魅力的だったから、ほかの作品も観てみたくなった。我らが映画部長に『昼下がりの衝撃』['81]は持ってないのか訊ねると、残念ながら、タイトルすら知らない作品だったとのこと。 他方こちらは、スクリーン鑑賞2回に続き、DVDで3回目の5度目の観賞で、'73年に自主上映に掛けて会場に借りた約500席の劇場を@200円で満員にして嬉しかった記憶があるばかりか、ミシェル・ルグランがアカデミー賞を受賞した名曲を当時の初恋の女子校生がピアノで弾いてもくれた『おもいでの夏』ならぬ“おもいでの曲”の映画でもあるそうだ。それなら格別の思い入れがある作品なのも道理だ。ロケ地を丹念に追った動画をYouTubeに公開していた御仁にとっても、そういう映画なのだろう。 二年後の作になる『ジェレミー』は、公開当時、あまりの人気ぶりに僕の天邪鬼がもたげて観逃していた大ヒット作だ。今では当時に郷愁を覚える世代からしか語られることのなくなった作品のような気がするが、オープニングで映し出される楽器【チェロ】やら先住民の写真、チェスの駒、競馬といった少々風変わりな趣味を愛好するジェレミー・ジョーンズを演じたロビー・ベンソンが歌う♪The Hourglass Song♪のごとく時計の砂が落ちるようにして終えた初恋を描いて、なかなか味わい深い作品だったように思う。 先に観た『おもいでの夏』同様に、午前六時のモーニングデートの経験も、そうして交わす“おはようのキス”の経験も僕にはないままの高校時代であったが、二学年上のスーザン・ロリンズ(グリニス・オコナー)と登校したくて午前七時からの待伏せをしてしまうような心境には、何だか気恥ずかしいような懐かしいものを覚えた。とても三週間と六日とは思えない濃密でドラマチックな初恋物語だっただけに、当時、同世代で観て心動かされた人々には特別な作品になっているであろうことが、とてもよく偲ばれる映画だったように思う。ジェレミーの何が好いのかを伝えるスーザンが素敵だ。彼にもたらしたであろう喜びと自信を思うと、その掛け替えのなさが沁みてくる。また、ジェレミーのバスケット部の親友ラルフ(レン・バリ)の人物造形がなかなか好かった。僕も中学時分はバスケット部だったから、夏の日にはジェレミーたちと同じく上半身裸でやっていたこともあったのを思い出した。ジェレミーがスーザンと別れたニューヨークの空港にあった証明写真機ボックスと思しき装置の看板に「Yashica」とあったヤシカの名はさっぱり見聞きしなくなったように思うけれども、もうなくなっているのだろうか。 五人が集まった合評会では『おもいでの夏』のほうを支持した者が四名で、『ジェレミー』を採った者が一名だった。四名のうち一名は僅差だと言っていたから、票数ほどの差ではなかったことになる。『ジェレミー』も悪くなかったが、あれだけの出会いを得ていながら、あれっきりというのは妙にすっきりしないとの声が出た一方で、『おもいでの夏』は、やや型通りというか類型的であるうえに猛烈トリオの配置が陳腐で気に入らなかったとの意見が女性メンバーから寄せられた。もしかすると、オスキーのミリアムとの初体験エピソードの描き方が気に入らなかったのかもしれない。 16ミリで撮られた『ジェレミー』は、自身の体験に根差しているであろう等身大の物語には心惹かれたけれども、映画としての画面の魅力が『おもいでの夏』には及ばなかったという意見も出た。画質の粗さは本作においては、むしろ手触り感として功を奏していたように僕は感じたけれども、画面というか演出効果というか、画面から滲み出る行間の豊かさが『おもいでの夏』に描かれた特別な一夜の場面において『ジェレミー』を格段に上回っていた気が僕はしている。 合評会で各人の意見を訊いてみたいと思った件について投げ掛けてみたところ、あまり芳しい反応は得られなかったのだが、女性メンバーがドロシーの残した手紙にあった「時が経てばわかること」というのは、自分からハーミーをベッドに誘った理由のことで、好きとかいうのではなくても異性の肌を求めたくなることがあるということを指しているのだと思うとのことであった。ハーミーが「理解できなかった」と回想している出来事については、誰からも回答が得られなかった。 僕は、ドロシーがハーミーの手を引いてベッドに誘ったのは、愛夫を亡くした喪失感の寂しさから求めたというよりは、夫を亡くした自分の傷みに涙してくれたハーミーに応える想いのほうが先立っていたような気がしている。約束通り訪ねたらいつもきちんとしているドロシーが煙草の吸殻を山にしたまま酒瓶も放置していることに驚いたものの、彼女の夫の戦死通知を観て彼女の傷みの深さを知るとともに、何もしてあげられない、どうしたらいいのか分からない情けなさに涙したのだろう。それがあってこそドロシーは、己が失意と孤独をハーミーに束の間、預ける気になったように感じている。 すると、合評会後にメンバーの一人が最後のナレーションについて、原文を送ってくれた。 "I was never to see her again. Nor was I ever to learn what became of her. We were different then. Kids were different. It took us longer to understand the things we felt. Life is made up of small comings and goings. And for everything we take with us, there is something that we leave behind. In the summer of '42, we raided the Coast Guard station four times, we saw five movies and had nine days of rain. Benjie broke his watch. Oscy gave up the harmonica. And in a very special way, I lost Hermie...forever." 日本語字幕では<理解できなかった>となっているが、原文では理解するのに時間が掛かったという感じで、三十年もすれば人の心というものも充分理解できるようになっているはずとの指摘で、「ここは字幕屋さんの力量でよりよい意訳を充ててほしい」とのことだった。これについては、僕は上記のとおり「三十年前に「理解できなかった」と回想している出来事」と受け取っているので、原文とのズレはないのだが、「主語はWeとなっていますが、ここはドロシーとハーミーではなく、後の文章から三人のガキどものように感じます。」との意見には意表を突かれた。 原文によれば「I(ハーミー)」ではなく「We」となっているというわけだ。それがドロシーとハーミーを指すのではないことは、この回想がドロシーの残した手紙にあった「時が経てばあなたにもわかるでしょう」を受けてのものだから自明のように感じるが、具体的に猛烈トリオ三人組のことなのだろうか。僕は、もっと広義に我々高校生みたいな意味合いでのWeではないのかなという気がした。我々日本人といった言い方をするとき、「多くの日本人が」的な意味合いを込めつつも主軸に置いているのは「自分」であることが多いように思うが、そういうニュアンスでのWeのように感じる。 加えて「何が言いたいのかわかりませんが、あの42年という時の経験から、古いハーミーは変わったということなのでしょうかね? 後悔や傷が残っているということかもしれません。あの三人にとっては後に大人になった時に、42年夏の経験が、人間として人生を理解し始めた転機になったということなのでしょうか? 子供であったベンジーは時計を壊し、子供であったオシーはハーモニカをやめ、子供であったハーミーにとっては、特別な方法(ドロシーとの一夜)で自分というものを失ったということかも。要は三人にとって、42年夏が子供時代への決別となる経験をしたという回想だと思うのです。 あの回想のナレーションも日本語字幕では感じられない深~い意味があるのでしょうね。」とも添えられていたが、「要は三人にとって、42年夏が子供時代への決別となる経験をしたという回想だと思う」との受け取りには同感だった。換言すれば、三人にとっての'42年夏すなわち「(自身を含め誰においても)十五歳の夏は子供時代への決別となる時期だ」という回想をハーミーが独白しているナレーションだと思う。 併せて「今回の二作品はなんだか、自分の昔を思い出しましたね。主役の男の子がイケてないのもイケちゃんと一緒でとても親しみを感じました。 この選択、よかったです。」とも記していて、併せ観ることでの妙味にも触れていた。そのとおりだと僕も思う。 | |||||
by ヤマ '25. 8.14. DVD観賞 '25. 8.17. DVD観賞 | |||||
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