原作小説『おもいでの夏』ではどうなっていたのか
ハーマン・ローチャー 著 <角川文庫>

 映画日誌にドロシーが針を落としたレコードから流れる主題曲のなかで静かに踊る二人の場面が実に好く、ドロシーを抱いて踊りながら涙しているハーミーでなければ、彼女もベッドにまでは手を引かなかったのかもしれない。涙を流した顔を見て、夫の戦死の知らせを受けた失意と孤独を一人では負い切れないやり場のなさをハーミーに束の間、預けたのだろう。事後、揃って天井を見つめつつ、自分のほうに顔を向けてきたハーミーに微かに笑みを返してベッドから抜け出し、ガウンを纏って表に出て行き、煙草を吸うドロシーの姿が心に残る。と記した場面を原作小説ではどのように描いているのだろうと思っていたら、昭和四十七年の角川文庫を合評会の主宰者が貸してくれた。それなら、合評会で問い掛けた“ハーミーが三十年前に理解できなかったと回想している出来事”とは何のことを指しているのかについても、原作小説ではどうなっているのか確かめてみようと思った。

 思いのほかの分厚さに驚いたのだが、少し読んでみると、その語り口の饒舌さに納得した。訳文があまりしっくりこなかったので、全文読むのは止めて件の場面を追ったのだが、ハーミーが夜、ドロシーの家をノックしたのは、372頁中の342頁目、全20章の第19章でのことだった。彼女は蓄音機のところにいき、まわりつづけているレコードの上に針をおいた。女の声だった。しかもハーミーは一瞬、彼女が背中をこちらに向けていたため、それはドロシーがうたっているのではないかと思った。その歌は優しい、叶えられぬ恋の歌で、ハーミーがかつてこういった歌をうたうもの悲しい女たちにたいして、また、すぎ去った、あるいは失われた愛にたいして心に抱いたあらゆる光景をよみがえらせた。…彼女は蓄音機のそばからはなれ、部屋の中に散らかっているこまごましたものをかたづけにかかった。彼女はグラスと灰皿をとりあげた。…彼はドアのない入り口から彼女が台所に入っていくのを目で追った。P345~P347)後にハーミーがお気の毒ですとだけ言うのは、映画化作品と同じだ。

 振り返った彼女は彼の方に近づいてきた、しかしそれは、だれでもいい、生きていて自分のことを気にかけていてくれる人に触ってみたいと思うからだった。そのかわいらしいピンクのスリッパが彼のがっしりしたサドル・シューズのところにやってきたとき、ハーミーは彼女よりも自分の方が背の高いことに気づいた。自分の顔に涙が流れているのを彼は知っていた。…彼女は彼の顔に手をのばし、一本の指さきで彼の涙を拭った。P349)とまでは描出していない映画化作品だったが、やはりハーミーの涙は重要ポイントになっていた。そして、どのようにして、あるいはまたどういうわけでかまったくわからないまま、ハーミーは自分とドロシーが動いていることに、こともなげに踊っていることに気づいた。…P350)と続くのだが、終わってしまっているはずのレコードの奏でる歌の歌詞を挟みながら綴られる二人の踊りは、彼女をリードしてそれらのあいだを出たり入ったりしながら、そして、それらが彼女に触れることのないように、それらが過去彼女を傷つけたそれ以上に傷つけることのないように気を配りながら、彼女と踊りつづけた。それらはぎしぎし音を立てる鉄線につながれて、右に左に旋回しながら、意地わるくたれさがっていた。踊って ときめき 見たとき はたと。ハーミーとドロシーはそのあいだを縫っていった。実体のない影、床にも、壁にも、時間にもじゃまされることのない重さのないシルエット。やがて彼女の顔が彼の顔を見つめるために上に向けられた。彼女は彼をまじまじと眺めた。そして彼をだれだか知ろうとして、彼を思い出そうとして、目の見えない婦人のように、その指で彼の目や鼻や口を撫ぜた。…P352~P353)と綴られ、ドロシーがハーミーの手を引いて寝室に赴く描写もないままに、まさに踊りがセックスの暗喩として描出されている作品だった。

 男にとってファースト・レイ【処女航海】はラブ・レイ【愛の航海】でなければならない。ドロシー。ドロシーなら愛の航海となるだろう。愛の航海、美わしきドロシー。ああ、ドロシーと愛の航海を首尾よくやりとげることがどんなにむずかしいことか、彼にはよくわかっていた。P315)と悶々としていたハーミーがそしていま、ししゅうのほどこされた枕の上にうかぶいとしい顔、ひろげられたコンパスのようなかたちをして左右にうきあがる美しい髪の毛。ドロシーは目をあげ、微笑み、秘めた愛のことばを語り、彼のものではないあのとき、あのことを思いおこさせる。ドロシーは目を開き、ドロシーは目を閉じる。強くもとめ、まちもうけるドロシー。ドロシーは彼の下、優しい腕は鋼鉄のようになり、あたたかい脚は彼をしめていく。もつれたビロードの彼方に、思考の彼方に、あらがいがたく、彼自身の声の彼方に……「いけない、いけない」……なぜっていまは夏で、はじめてで、そしてこんなにも彼女を愛しているのだから。ドロシー。ぼくのいとしいドロシー。P354)という一夜を迎えながら、それをやめるような心理状態ではなかったため、よぎなくなるがままにまかせてしまった戦争未亡人と愛の営みをすませてしまったという事実P357)に対して事後に自己嫌悪に駆られ、いかにその事態を心の中でこねまわしてみようが、いかにそれをねじ曲げ、自己流に解釈し、そのことをごまかしてみようが、けっきょくそれは、自分の方が彼女よりもいけなかったということになるのだ、このことも彼にはわかっていた。彼女はなんとかうまく人生を切りぬけていくだろう。なぜならいつの日か彼女は、なぜそんなことになったのかということを理解するだろうからである。けれどもこちらは悩むことになるだろう。なぜなら、それは自分にとってのさいしょのことであり、ということは、とりもなおさず永久にそのことを思い出すということでもあるからだ。たいたいそれが神話の歩む道なのだ。さらにそこへ加えて、危機の事態にあって、自分の真の性格は力に訴えることを選び、思いやりよりもセックスに興味のあることを暴露してしまった、ということをたえず思い出すにちがいなかろう。彼には、自分は終生消しがたい烙印を押されるだろうということがわかっていた――くそ! オマンコ、ムスコ、そして……下劣な男P357)と我が事ばかりに囚われているなか、彼女は起きあがった。…彼は彼女が化粧着をまとうのを見た。しかし、そのしぐさは、まるで彼などいっしょの部屋にはいない、といったふうだった。…寝室を出て居間の方に歩いていった。…居間にいる彼女の背中が見えた。彼女はただそこにつっ立っていた。彼女の髪の毛は少し乱れていた。…二、三ラウンド戦いをまじえたとあっては当然のことだった。やがて彼女は彼の視線のとどかない部屋のわきへ動いて、彼の視界から姿を消した。…彼女は自分のたばこを見つけ、その一本に火をつけた。…彼は彼女がはっきりとこういったのを聞いた。「ハーミー、家に帰った方がいいわ。」…居間にきてみると、彼女はいなかった。部屋の入口からポーチに立っている彼女が見えた。たばこのオレンジ色の点が闇の中をゆっくりと動いている。ポーチのそこは、海を見わたせる側だった。…彼はなにか、なんでもいい、ことばをかけたかった。しかし彼女の方が先に口を切って彼の手間をはぶいてくれた。彼女の声はほとんどささやきに近かった。「おやすみなさい、ハーミー」P357~P360)と展開していたから、外形的には映画化作品とほとんど違わないのだけれども、印象は随分と異なるように感じた。

 原作にもじっさいになにもしてやれなかった自分の無能力さゆえに、彼は自分を弱々しく感じた。P359)という一節はあるのだけれども、ドロシーがポーチに佇む家を後にしながら、彼はうしろをふりかえった。オレンジ色の点が見えた。そのほかにはなにも見えない。靴をぶらさげ、理解するには少し間のかかりそうな二、三の心の動きをあやつりながら、彼は歩をすすめていった。ひとつだけはっきりしていた。つまり、セックスをしたということだった。自分の愛する女性とセックスをしたのだ。彼はセックスをした、はじめて、しかもそれは彼がこの地上でもっとも望んでいた女性とであった。これはよろこばしいことであり、すばらしいことではないだろうか? では、なぜこれほどきたならしく感じるのだろう?P360~P361)で結ばれる一夜の描出だったからだ。映画化作品を観てキーワードのように感じた「理解できなかった」の対象が更にまた増えたように思った。

 そして、ハーミーに残された手紙には、映画化作品と同じ言葉がしたためられていて、ゆうべあったことで、わたしはなにも弁明しようとは思いません。そのうちあなたが、そのことを思い出す正しい方法を見つけてくださるとわかっているからです……。368)との前段から一気に三十年後に飛び、男は浜辺に立っていた、そして、小高い砂丘の上に建つその家を見あげたとき、そのことがあまさず彼のもとへ、すばやくしかも鮮明に、どっとよみがえってきた。それは歳月がすぎてもたいしてかわっていなかった。…手紙についていえば、…ときどき、世界が彼を手ひどく打ちのめしたようなときはいつも、自分のやっていることがなんであれその手を休め、その勇気のある文句を読みかえし、その美しい声に耳をかたむけるのだった。P368~P369)となって後段わたしがなそうとすること、それはあなたのことをいつまでも忘れないでいるということです。そして、あなたの上に愚かしい悲劇などいっさいふりかからないようお祈りしています。ハーミー、わたしはあなたにいいこと、ただいいことだけがあることをねがっています。P369)へと続いていた。

 映画化作品における三十年後のハーミーの言葉としてのナレーションを原文で送ってくれた合評会メンバーの提供に基づけば、談論の焦点になったWe were different then. Kids were different. It took us longer to understand the things we felt.の部分だけが原作小説になく、他は彼はドロシーをふたたび見ることはなかった。彼女がどうなったかについても耳にしなかった。…人生はささやかな往き来から成り立っていた。しかもひとはおのれとともにいっさいをもち去ることはできず、なにかをあとにのこしていかねばならない。…一九四二年の夏、彼らは四回にわたって沿岸警備隊の基地を襲撃した。彼らは五回映画を見た。雨の日が九日あった。ベンジーはあの時計をこわしてしまい、オシーはハーモニカをあきらめ、そしてあるきわめて特殊な方法でハーミーは永久に消えてしまった。368~P371)と四頁にわたって綴られていた。

 小説で「彼」となっている部分をモノローグにすれば、「I(ハーミー)」となるのは必然だが、明らかに猛烈トリオ三人組を指す後段は除いて「We」の出てくる部分が原作小説にはなく、唯一残るAnd for everything we take with us, there is something that we leave behind.についてはしかもひとはおのれとともにいっさいをもち去ることはできず、なにかをあとにのこしていかねばならない。と具体の誰々を指す「We」ではないことが訳文にて示されていたことになる。映画の作り手がWe were different then. Kids were different. It took us longer to understand the things we felt.に託したものが非常に大きな意味を持っていることに改めて気づかされた気がする。そして、ドロシーのいう“ゆうべあったこと”の描き方において、映画化作品は原作を遥かに凌駕しているように思った。

 また、映画のオスキー【森本淳の翻訳ではオシー】が言った初めての女も風と共に去りぬだという台詞は、おれがさいしょに寝た女――風とともに去りぬ、ってわけだP363)となっていて笑みが漏れた。原作小説であのとてつもなく勇敢なオシー、彼はハーミーの二十四歳の誕生日に朝鮮で戦死P370)と記されていた少年の原作での人物造形が少し気になったけれども、あと340頁を読む気力をもたらしてくれるには至らなかった。

by ヤマ

'25. 9.10. 角川文庫



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