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『女と女と女たち』(Woman Times Seven)['67]
『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』(Visions of Eight)['73]
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
監督 ミロシュ・フォアマン、市川崑ら八か国の八名

 今回の課題作は、七人の女性を一人の女優が演じた七話からなる劇映画と、八か国八人の映像作家の視点による一つのオリンピックのドキュメンタリー映画とのカップリングだった。こうして並べられた二つのオムニバス映画を続けて観ると「何を思ってこんな映画を撮ろうということになったのだろう」と思わされる、少々ひねった企画のユニークさが際立って来るように感じた。

 先に観た『女と女と女たち』は、全話で主演を務めるシャーリー・マクレーンに限らず役者は主に英語圏俳優で、英語を話し、舞台はパリで、スタッフは主にイタリア人という、まさに第五話でイヴ(シャーリー)の夫が聴きたくないと言っていた“インターナショナル”な設えの作品だった。

 各話の始まるタイトルがシャーリーの演じた女性名でクレジットされていたように、彼女の演じる女性七体というか女心七態を描いたものなのだろうが、その掴み処の無さというか、エキセントリックな様が今一つ響いて来ず、あまり面白味を感じることができなかったように思う。エンドロールでクレジットされていた各話のタイトルのほうが興味深く目に留まった。

 第一話は、亡夫の葬列で大泣きしていたはずが、列に寄り添いながら口説いてくる夫の親友ジャン(ピーターセラーズ)の口車に乗って、二人で列を離れていく未亡人ポーレットを描いた葬列(Funeral Procession)。次は、子連れで帰省した留守宅のベッドで夫が親友と寝ている姿を目の当たりにし、憤慨して夜の女になろうとした主婦マリア・テレーザを描いた素人の夜(Amateur Night)。マルチリンガルな通訳であるリンダが二人の男を手玉に取る姿を描いていた、英国ポップアートの旗手アレン・ジョーンズの名も出てくる第三話二対一(Two Against One)。続いて、小説家のリック(レックス・バーカー)が綴る突拍子もない女の振舞いの口述を聴いて憑依する妻エディットを描いたスーパー・シモーヌ(Super Simone)。第五話は、マリー・クレールを愛読するイヴがブルジョア妻のプライドをかけて衣装を張り合う姿を描いていたオペラ座にて(At The Opera)。第六話が、先ごろ観たばかりのホテルローヤルの『せんせぇ』のような心中を図るマリーとフレッド(アラン・アーキン)を描いた自殺(The Suicides)。最終話が、妻の浮気を疑って若者を雇ったばっかりに尾行してくる青年(マイケル・ケイン)にときめくことになる妻ジーンを描いた雪(Snow)の七話だった。

 共通して描かれていたのは、男のアホさと言うか思慮のなさと、女心の不可解さだったような気がする。おそらくは笑いを取りに来ていると思しきカリカチュアライズや誇張と僕の笑いのツボが嚙み合わず、あまり響いてこなかったが、ただ、シャーリーの七変化はなかなか見事なものだったように思う。なかでも、奇抜な裸エプロン姿やフルヌードで二人の男を挑発していた、日本語もこなす才女リンダを演じていた第三話が目を惹いた。エピソードとして最も面白かったのは、藪蛇夫ビクター(フィリップ・ノワレ)の登場する最終話だったように思う。


 翌々日に観た『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』が撮っていたのは、後にスピルバーグが『ミュンヘン』['05]で映画化した選手村テロ事件の起きた第20回ミュンヘン大会なのだが、当然ながら、企画時には想定外だった歴史的事件が本作でも最終章最も長い闘い(The Longest)で採り上げられていた。だが、最終章を観るまでは、オープニングのナレーションで僅かに触れられたほかは、その影を垣間見ることもできない「時よとまれ、君は美しい」が映し出される。本作の核心は、オープニング・テロップで示されたとおり、まさに原題に忠実な構成をによって設えられたオムニバスだったことにあるように思った。

 第1の視点は、ユーリー・オゼロフ【ソ連】による、オリンピックの開幕のみならず最も緊張感漂う各競技の時間に焦点を当てていた始まりのとき(The Beginning)。第2の視点が、大会で必要になる大量の物資・食糧に重ねてボリューム感の極みとも言えそうな競技である重量挙げを捉えたマイ・ゼッタリング【スウェーデン】による最も強く(The Strongest)。第3の視点は、ドキュメントを如何にドラマティックに見せるかにおいて、全員が使うに違いない技法たるスローモーション&サイレントをピンボケ画像にして延々と続ける導入部で始めた棒高跳びを映し出していた、いささか遣り過ぎ感もあったアーサー・ペン【】による最も高く(The Highest)。第4の視点が、あまりに通俗的過ぎて、却って意表を突いたとも言えそうな、女性アスリートに焦点を絞ったミヒャエル・フレガー【西独】による美しき群像(The Women)で、走り高跳びのスリリングなメダル争いと体操競技の美技が目を惹いた。

 第5の視点は、市川崑が34台ものカメラを据えて男子100m走決勝の十秒間を撮った最も速く(The Fastest)。第6の視点は、最も過酷な競技とも言える十種競技に焦点を当てたミロシュ・フォアマン【チェコ】による二日間の苦闘(The Decathlon)。第7の視点が、いかにも誰かがやりそうな、敗者に目を向けたクロード・ルルーシュ【】による敗者たち(The Losers)で、カール・ルイスに似た面立ちの人物が観戦するボクシングから始まり、柔道、自転車、馬術、水泳、女子槍投げ、レスリングとさまざま競技を捉えていたけれども、ボクシングよりも痛そうなレスリングが最後に現れ、印象に残った。最終章の前掲「最も長い闘い」は、ジョン・シュレンジャー【】によるマラソンで、15km地点からフランク・ショーターに首位を奪われながら6位入賞を果たしていた、5km地点トップの理学博士で化学繊維会社の上級研究員ロン・ヒルに焦点が当てられていた。

 金メダルを競い合うスポーツ大会を材料にして、映像作家が各“最上級”を掲げて独自性の鎬を削った本作は、なかなかスリリングで刺激的だったように思う。そのなかにあって最も面白かったのは、初日トップから二日目のハードルで転倒し棄権した選手の出た十種競技を撮ったミロシュ・フォアマンの章だった。豊かな胸を躍らせながらカウベルを奏する女性たちや第九の合唱曲などの音楽を巧みに織り交ぜ、スローモーションのみならず、他章では殆ど見られなかったコマ落としも駆使して、最もドラマチックな構成を果たしていたように思う。最も笑えたのは、唯一の女性監督による第2の視点。全く知らない映画人だったが、調べてみると女優でもあるようで、監督・脚本の劇映画もいくつかあるようだ。観てみたいものだと思った。


 合評会では、何を思ってこのカップリングにしたのかを教えてもらうのが楽しみだったのだが、主宰者によれば、本当は『昨日今日明日』['63]でやろうと思っていたそうだ。全話をソフィア・ローレン&マルチェロ・マストロヤンニで演じたそのヴィットリオ・デ・シーカ監督作は、十代時分に月曜ロードショーでTV視聴したっきりだと思うので、きちんと再見してみたいが、インターナショナル色で言えば八か国には及ばなくても、『女と女と女たち』のほうが本作に見合っているような気がした。すると、デシーカには『華やかな魔女たち』['67]などという変わり種や『ボッカチオ'70』['62]もあると教えてくれた。前者にはソフトがなく、後者は60分もの×3で3時間もあって課題作にしにくいのだそうだ。『華やかな魔女たち』は知らない映画だったが、なかなか「華やかな監督たち」だと興味が湧いた。

 オムニバス映画については、前に怪談が課題作になったときにも話した覚えがあるのだが、オムニバスならではの楽しみがあってわりと好みだ。その愉しみを最初に教わったような気がしている作品は、四十年近く前に観たカオス・シチリア物語なのだが、『ボッカチオ'70』の話を聴いて矢庭に『デカメロン』['70]とのカップリングで課題作にしてもらいたくなったので表明したところ、検討してくれるとのことだった。楽しみになった。

 今回参集したメンバー6名の支持は、3対2(片方しかきちんとは観てないとの理由から1名が棄権)で『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』が競り勝った。僕は、アスリートの競う大会を素材にして映像作家に視点と技法を競い合わせた『Visions of Eight』のほうに一票を投じた。

 談義で面白かったのは、『女と女と女たち』の第二話について、妻子の留守中に自宅に妻の友人を引っ張り込んでいた夫を路上で抱きかかえる最後の場面をどう観たかと女性メンバーから問われて、パジャマ姿で夜の街をずっと探していた夫が愛しているのは、浮気相手ではなく自分のほうだという言葉を信じる気になったということだと思うと応えた際に併せて、こういうシチュエーションにおいて酷い仕打ちの極みとして使われる常套句“パートナーの留守中に自宅に引っ張り込んだ”という言い回しに対して、そういうケースも皆無ではないだろうが、多くの場合は、浮気をしたのが夫側であれ妻側であれ、自宅に引っ張り込むのではなく、居宅を訪れたいという相手側の申し出によるものではないかと思っていると、その理由を添えて返すと大いに感心されたことだった。

 立場の弱い愛人の側にある者は、得てして難題を振りかけることによって相手の自分への想いの丈を量りがちだとしたものだし、当人は相手側の要求でもなければ、自宅に連れ込むようなリスキーな行動を自ら取るはずがないと見るのが妥当だと思う。一方、相手の伴侶と張り合う立場の愛人側からすれば、最もタブーに触れる拠点侵略の証が相手の居宅のベッドにはあるわけで、そこに旗を立てに行くような、或いは犬がテリトリーの証を残すような動物的な欲求が湧くのではないかという気がする。

 『女と女と女たち』の最終話に対してフォロー・ミー['72]を想起したという意見も興味深かった。発言者は、それゆえに尾行者のマイケル・ケインを探偵だと解したそうだ。僕も同じように同作を想起しながら、それゆえに逆に探偵ではなさそうだと感じたのだった。尾行の稚拙さや歳の若さから夫が安直に職場の部下を使ったように受け取っていた。同じ映画を想起しながら、逆に作用していたところが面白い。

 また、当夜はランチ会ではなく年に一度の宴席で、一年間に観賞した課題作二十四作からのベストテン他各賞の発表がされた。その結果や各メンバーの選定理由の発表もなかなか興味深く、とても楽しく贅沢なひと時を過ごすことができた。
by ヤマ

'25. 1.14. DVD観賞
'25. 1.16. DVD観賞



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