『カオス・シチリア物語』(Kaos)
監督 パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ


 この作品は、四つの短編とエピローグからなるオムニバスであるが、その五つのエピソードには、単にシチリアの物語という関連以上に、周到な仕掛けが施されている。第一話とエピローグに、イタリア統一の英雄ガリバルディの赤シャツ隊の時代と原作者ピランデッロの登場する現代という、二つの時代設定の明らかなエピソードを置き、各エピソードを首に鈴をつけた烏の飛翔で綴っていく構成は、三時間余の小話集に二百年以上の時間の厚みを与え、しかも現代をエピローグとすることで、民間伝誦を基にする四つの昔話を今も尚シチリア人の心に生きる物語として、現代に再生させている。

 第二話のサロを、エピローグにて、ピランデッロが忘れかけていた友人をすんでのところで思い出すという形で再登場させているところにも、その意図があるのだろう。そして、これを縦糸とするなら、さしづめ横糸は、五つのエピソードに共通する、母親のイメージ並びに伝承文学に相応しい死と再生のイメージという二つのコンセプトである。前者は、十四年間音沙汰のない二人の息子に返事の来ない手紙を送り続ける老女のなかに、或は、吸い込まれそうなくらい奥深く静かな美しさで画面一杯に映し出される月(ルナ)の象徴するものとして、さらには、母体のような大甕のなかから見上げた月の光に誘われるようにして始まった母系社会的祝祭のエネルギーの豊饒さのなかに、また、反骨的な羊飼いたちが命を賭けて求めた母なる大地への回帰、そして、伝誦を産み、子に語り継ぐ母親そのものとして、生き生きと描かれている。後者は、夫の死を巡る残酷な記憶の再生を果たすゆえに母親から拒まれ続ける、もう一人の息子との哀しい関係のなかに、さらに、奇病ゆえに妻を欺き、その発覚により妻に裏切られた新婚夫婦の相互の失望と愛の再生の物語として盛り込まれる。かめの破壊とその奇跡的な再生、或は、それへの封じ込めと開放の顛末にというのは些かこじつけめくが、死後の埋葬とは再生への畏れと願いが込められた儀式であるし、エピローグの子供たちが浜辺の軽石の砂山から真っ青な海に舞い降りるシーンは、その鮮烈さと神々しさゆえに、まるで天使が地上に降り立つようで、冒頭に登場し、オムニバスを綴って行く烏の連想させる死のイメージと相まって作品全体に、死と再生の神話的イメージを投影しているように思う。

 それにしても、この映像の雄弁さはどうだろう。刺も忘れて思わずサボテンをむしり取るワン・カットで夫を探し続けた時間の長さと疲労を語り尽くすシャープさ。まさに月が宿ったかのような赤ん坊の目と表情。寝室の床を雑巾掛けする新妻の姿には、女の妖しさと逞しさが見事に同居しているし、月光に浮び上がる唯一本の木にしがみつき叫ぶ男には、深い孤独と苦しみがある。また、甕の口から伸び出た手が告げる、たった一つの手拍子から祝祭へと広がる画面の展開、大地への回帰の時を待つ人々の佇まいのなかの静謐、そして、とりわけ圧倒的な、前述の天使のイメージ。拾い上げていけば、きりがないほどに、印象的な映像が次々と展開され、見落とすまいと強いられる緊張が心地よい。そのうちに、綴り役の烏の首の鈴の音のように、遠く幽かな懐かしい響きとして、観客は自らの風土に宿る伝誦への関心を呼び覚まされるであろう。卓抜したイメージの豊かさと構成力である。ただ惜しむらくは、あれほどに象徴的で幻想的な映像で語りながら、第四話までは、決して幻影を映像化しなかったタヴィアーニが、エピローグで死んだ母を人物として登場させたのは残念な気がする。また、インタビューによると、タヴィアーニの意図は「寓話の映画」にあるとのことだが、とすると、寓話の持つ寓意が読み取りにくい気がする。もっともその点は、寓話という言葉にこだわらずに、伝誦と受け取れば良いだけの話なのかもしれない。
by ヤマ

'86.12. 9. 名画座



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