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『お引越し』['93] 『夏の庭 The Friends』['94] | |||||
監督 相米慎二 | |||||
今回「相米慎二の世界-大人に対峙して生まれる子どもの世界-」と題してセレクトされた二本は、ともに既見作だ。最初に観た相米作品は、'82年に東映で『青春の門 自立篇』との併映で観た『セーラー服と機関銃』で、次が翌年の『ションベン・ライダー』と『魚影の群れ』。'85年に日活で『暗室』との併映で観た『ラブホテル』で萎えて、翌年『台風クラブ』で観直した。その後は暫く観る機会に恵まれず、'94年になって『お引越し』を観て感心し、翌年『夏の庭』を観て更に感心して、やはり子どもを撮るほうが向いていると思ったものだった。'01年には美術館ホールで『風花』も観ている。そして、三年前にBS録画で『翔んだカップル オリジナル版』を観たわけだが、今回の課題作の二本は、これまで観てきたなかでも出来のいいほうの作品だという気がしている。 窓ガラスのショットで始まったのち、レンコ(田畑智子)が窓ガラスを開け放ったところで現れるタイトルまでの6分をほんの数カットで映し出した梅雨時の夜が印象深い『お引越し』を観るのは、ちょうど三十年ぶりになる。タイトル直前の「早く明けたらええのになぁ」とのレンコの台詞が暗示していたトンネルを抜けるのに、二時間超のランニングタイムを掛けた本作の最後にレンコが連呼する「おめでとうございます」というのは、母ナズナ(桜田淳子)がイチバン良かった時代と言っていたときのレンコを、小学六年生のレンコが抱き締めるショットを待つまでもなく、親からの精神的独立を果たすという意味での“大人”の世界への「お引越し」を交々の想いでもって祝した言葉なのだろう。自身への鼓舞や痩せ我慢、両親に向けた思いなど、複雑な意味合いを湛えた含蓄があったが、ここで「おめでとう」という言葉を選ぶのはなかなかのもので、原作小説にもあったものなのか確かめてみたくなった。あったとしても、小説だとここまでの反復はなかったに違いない。 三十年前に観たときは、ナズナの我の強さが目についていたような覚えがあるが、改めて観直すと、夫ケンイチ(中井貴一)といると決まって現れる己が険相に自身でも嫌気が差している落胆と悲哀をよく演じていて感心した。歌手ながら歌唱よりも表現力の豊かな女優になっていたように思われるのに、本作から後の出演作品がなくなっていることが実に残念だ。素のキャラクターの明朗と夫の前での険相のギャップの大きさに、夫婦の関係が好かった時期の格別さが彼女のなかに強く残っていることが却って仇になっている面も窺わせていて、なかなかのものだったように思う。“経済的協力”の面で逆転したことによる蟠りということでは、実はケンイチ以上にナズナのほうが過敏になっていたような気がしてならない。 井上陽水の♪東へ西へ♪が流れていたが、同時代の楽曲ではないから、やはり作り手の想いが込められていたような気がする。合評会では、焼け崩れる神事の飾りに向かってレンコが連呼する「おめでとうございます」をメンバーがどのように受け取ったか、訊ねてみたいと思った。「(子どもの気持ちにお構いなしに“食卓で会話の弾む明るい家庭”を投げ出すくらいなら)なんで産んだ!」というレンコの台詞と「この子、生まれてきてよかったと思うやろか」というワコ(須藤真里子)の台詞が対になって、本作の核心部分を突いていた気がする。最後に「なぁ、来年もまた来よな」と言ったナズナに「うん!」と嬉しそうに頷き、母が歌い始めた♪森のくまさん♪に合わせて唄い始める場面が素敵だった。 翌朝観た『夏の庭 The Friends』は、先に観た『お引越し』の梅雨とは異なる夏の驟雨ながら、同じく雨で始まる映画で、再見するのは '95年以来だから同じく三十年ぶりだ。タイトルが映し出されるまでの4分半のプロローグを本作では、特に長回しにこだわっていなかったことが却って印象深い。 死を巡る少年たちの通過儀礼を描いているという点では、かの『スタンド・バイ・ミー』['86]を想起させるところのある作品だと思うが、♪歩こう~歩こう~私はぁ元気ぃ♪との歌「さんぽ」は、けっこう効果的ながらも、ベン・E・キングの歌のインパクトには及んでいなかった気がする。 おしゃべりチョッカイの眼鏡くんカワベ(王泰貴)のキャラクターが漫画的で良く、砥石を取りに帰って息を切らして走る“関取”ヤマシタ(牧野憲一)の『お引越し』のミノル(茂山逸平)を思わせる人の好さが微笑ましかった。夏を過ぎ、秋桜が咲き誇る庭に崩れゆく廃屋を映し出した最後の場面をどう観るか、合評会のメンバーの意見を伺いたいと思った。 合評会では、概ね両作とも支持されていたが、どちらの作をより高く支持するかでは半々に分かれた。共通していたのは、女優としての桜田淳子が本作で終わっていることを惜しむ声だった。レンコの連呼については、ほぼ同じ意見だったが、崩れゆく廃屋については、あれは語り手たるキヤマ(坂田直樹)が大人になってから後の回想イメージではないかという意見が面白かった。そうなると、ますます以て『スタンド・バイ・ミー』と重なってくると感心した。だが、それを指摘した彼自身は、相米作品のそういう“イメージ優先の現実離れした幻想的なシーンの多用”が苦手なのだそうだ。僕はそのこと自体を好まないわけではないけれども、些か得意げに延々と続ける“ナルシスティックな遣り過ぎ感”には興覚めするようなところも感じる。レンコの連呼は田畑智子の表現力と相俟って効果的だったと思うけれど、遣りすぎ一歩前といった感じの危うさがあったように思うし、相米の得意とする長回しというスタイルそのものが負っているもののようにも思う。 もっとも、監督の遣り過ぎに対して抑制を利かせることのできるスタッフというのは、まずいないとしたものだろうから、結果的に遣り過ぎとの境界線を行ったり来たりするのだろう。だが、相米監督の醸し出す幻想感にこそ魅せられるファンにとっては、遣り過ぎくらいにやってほしいと思うに違いない。痘痕も靨ではないが、それこそが相米らしさだと思うファンが少なからずいそうに思う。チェックを入れられる者が誰もいそうにないという点では、三十年前に観たときも気になった、死してなお腹で大きく息をしていた傳法喜八を演じた三國連太郎にも言えることだと思った。少年三人組と出会うまでは、生き長らえながらも死んでいるようだった彼が、死してなお腹を膨らませる図に唖然としたが、誰もダメ出しができなかったのだろうと述べると、あの場面は、少年たちが早合点して死んだと思っているだけで、実はまだ生きていることを示した場面だと受け取っているという思わぬ意見が出てきて、なかなか面白かった。長回ししているなかで徐にカメラが引いていき、波打つ腹の動きを手前の座卓が隠すようなアングルに移動したのは、苦し紛れではなかったのかもしれない。 少年たちの早合点だと解した彼によれば、瀕死の老人の死に直面し狼狽する子どもたちの姿を描きたかったのだろうと観ていて、まだ生きていた喜八老に子どもたちの声が聞こえていたからこそ、それに応える形で井戸から舞い上がる蝶々が現れたと感じたのだそうだ。空井戸に葬られていた蝶の死骸が最後に甦って来る場面は、確かに喜八爺さんがキヤマたちの元に戻ってきたイメージを与えていたと僕も思うけれども、瀕死のときの呼び掛けに応えたというよりは、死してようやく果たせた妻の古香弥生(淡島千景)との再会の道を開いてくれたことへの感謝だと僕は受け取っていた。そして、それだけの想いを抱いていた愛妻の元に戦地から戻ることを自らに許せないほどの罪悪感と自罰を喜八に残して苛んだ戦争の罪深さを改めて印象付けていたように解している。枯れていたはずの井戸から染み出ていた水は、その悲喜万感の喜八の魂が流している涙だったわけで、戦地で先に死んでいった兵士たちの想いも含め、戦争によって苦しみ、深い傷を負った人々の体験と記憶が風化して行っている傍らでバブルの時代を謳歌し、またそのバブルも崩壊したという世の無常を示していたというのが、'94年作品で「秋桜が咲き誇る庭に崩れゆく廃屋を映し出した最後の場面」について僕の解するところだった。『夏の庭』『魚影の群れ』『台風クラブ』の順で推している所以だ。 *『お引越し』 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid02VgBHg1mnkDJS sKDAP3AhZu6jvUEWf9fEvxEM3mGvRAggHeLVq2y7BPDkd8eC8Ki2l *『夏の庭 The Friends』 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid0mNt9nX3fh18mv 9PSiQ8JKBQzc2Y79muszSkxbb3uGsXdpJaSqwUdhaG3hLvkqkUGl | |||||
by ヤマ '24. 4.23. DVD観賞 '24. 4.24. BS松竹東急録画 | |||||
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