『暗室』
監督 浦山 桐郎


 吉行淳之介の同名小説の映画化で、彼が「自分の作品なのでおかしな言い方だが、感動した。それというのも浦山氏自身が作品を消化し、自分のものとしているからだろう。」といった旨のことを述べているが、吉行は、一体何に感動したのだろう。男のつまらなさとか作家の嫌らしさとかいったものは、充分描かれているが、それは感動を与えるような性質のものではないし、それに対するところの女の逞しさとか妖しさといったものは、時折見える演出の巧みさにもかかわらず、充分に描けているとは言い難い。
 それというのも、展開の不自然さと物語の底流にある品格の下劣さと幼稚さ(それは語り手である私[主人公・中田]のものである)ゆえである。中田に充満しているスノビズムは、その友人山野井も含めていかんともし難いのだが、そういう意味では清水紘二がよく演じている。吉行はひねくれた男だから、自身を揶揄するものとしてそういうところを見て取り、それが自作から派生したものであることが相まって感心するというか発見するというか「感動した」という言葉を使ったのではないだろうか。そうでもなければ「感動」という言葉は、到底この作品に似つかわしくはないし、吉行ともあろうものがそんな安直な言葉遣いはしないはずだ。しかし、浦山の映画化の意図はそんなところにはないだろうし、だとすれば、この作品はあまり出来のいいものではない。
 そもそも浦山のような頑固な一徹者に吉行のような曲者は似合わない。演技の確かさや垣間見える格調の高さは、ポルノ映画らしからぬものだが、それだけにポルノ作品としてもインパクトが弱く、何やら中途半端なものとなってしまった。何もロマン・ポルノ文芸大作として予算を拡大してこんなものを撮らなくても、従来の路線のなかで拾い物のように見つけるロマン・ポルノの秀作は、この作品より遥かにレベルが高い。それは映画作品としても、また、いわゆるポルノ映画としても・・・。
by ヤマ

'85.11. 1. 日活



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