『青春の門』['75]
『青春の門 自立篇』['82]
監督 浦山桐郎
監督 蔵原惟繕

 先ごろ東映版['81]を公開当時以来となる四十年ぶりに再見した際公開当時にも浦山桐郎監督による東宝版より、…東映版のほうに惹かれた覚えがある。と記していて主因はやはり配役かな。演出的には、東宝版は暗いイメージがつきまとってた気がするね。などとコメントしていたのだが、その配役のうちでも最も似合わない印象が残っていた吉永小百合【タエ】が思いのほか奮闘していて瞠目した。

 また、音楽教師の梓旗江については、東映版の影山仁美よりも関根恵子が断じて好いように記憶していたとおり、当時二十歳の裸身の眩しさが見事だったが、人物造形においては既婚のアメリカ人ジャーナリストを恋人にしていてある意味、オンリーとも言えるわねと自嘲していた東宝版よりも、ハイカラ趣味で積極的に信介(田中健)を慈しんでいた東映版のほうが好もしく感じられた。

 先般の合評会では、東宝版に原作者が憤慨したと聞いていたのだが、四十七年ぶりに再見して、成程それももっともだと思った。東映版では、良くも悪くも炭鉱で命を危険に晒して働く荒くれ者どもの男気や侠気を描いていた筑豊篇だったが、東宝版は『青春の門』を借りて主に昭和史における朝鮮問題と反戦非暴力を語る作品になっていた気がする。

 東映版では骨齧りと、後に骨の髄まで抜かれてしもうたんよと亡夫を偲ぶタエ(松坂慶子)と重蔵(菅原文太)の熱っぽい濡れ場だったタイトルクレジット前のプロローグが、東宝版では廃坑となった現代の炭鉱を報じるジャーナリスト(小沢昭一)によるルポルタージュ仕立ての芝居になっていて、そのうえで近年のドキュメンタリー映画『作兵衛さんと日本を掘る』['18]にもなった炭鉱画家の山本作兵衛の絵をタイトルバックにしていたから、両作のまるで異なる趣というものを実に象徴的に示しているように感じた。

 非暴力主義という点では、昭和十三年のぼた山での伊吹重蔵(仲代達矢)と塙竜五郎(小林旭)の対決も刃物抜きの喧嘩になっていて、重蔵の決まり文句バカも利口も命は一つたいを後々信介のみならず平吉や矢部虎にまで口にさせていながら、タエを争った喧嘩は命懸けのものではない形になっていて腑に落ちなかった。東映版では竜五郎の頬に重蔵に斬り付けられた刀傷があったのとは雲泥の差だ。あろうことか、継母タエに叱責されて独りで朝鮮人部落に乗り込んだ信介と九南の喧嘩を相撲に替えさせて見届けていた金朱烈(河原崎長一郎)が、劣勢に九南を殴りつけた信介への反撃にでた九南に殴ってはいかんと咎める場面があって唖然とした。タエが逃走中の金朱烈を庇って逃がした際に渡すものも東映版での重蔵の形見の拳銃から、パンに替わっていて拍子抜けした。また、随所にヤクザを美化したくないとの作り手の想いが過剰に働いていて、原作小説の描きたかったであろうことが非常に浅薄な形で歪められているように感じた。当時の東宝趣味と言えば、それまでだろうが、これでは五木寛之が憤慨するのも無理はない。

 他方で、荒くれ男どもの芸者遊びが些か下品に過ぎていて、小便芸者という言葉には確かに聞き覚えはあるけれども、それは無芸未熟な芸妓の意味であって、御座敷で酔狂の小便姿を実際に晒す芸者ではなかろうに、と唖然とした。どうも作り手には、女性の小水フェチという趣味があるらしく、恋人ジェームスを朝鮮戦争前線で失い自棄酒をあおっていた梓旗江にも庭先での排尿場面を設えていた。

 その梓先生と恋人のアメリカ人の閨房での睦事を覗き見した信介が昂ぶりの余り、田川に住む織江(大竹しのぶ)の元にバイクを駆って訪ねて迫りながらも果たせなかったことをルポルタージュする件のジャーナリスト(小沢昭一)がこの時代の青春の門はなかなか開きませんでしたとレポートする段に至っては、青春の門をかくも狭義に矮小化した台詞に呆れ、五木寛之が怒るのも当然だろうと思った。

 重蔵から受けた恩義への報いと己が執心から献身的にタエを気遣う平吉(小沢昭一)が二人きりで潜んでいた坑道で迫ってきた際に拒み切れなかった自身に一筋の涙を流すタエと、今生の思い出となる刹那を得て随喜の天国ばい、天国ばいを繰り返す平吉の場面は、東映版のタエ像とは異なる姿として悪くない場面だったが、平吉が今わの際に言った地の底であったことは誰にも話さんとがしきたりですきを受けるような形になる竜五郎しゃん、うちは、あんたが思うとるほど値打ちのあるおなごじゃなかです。地の底が似合うとるとは、いただけなかった。タエが竜五郎の申し出を拒む理由は、純粋に重蔵に対する想いであって、平吉との一事をそこに加味するのは至って芳しくないように思う。

 そして、信介が筑豊を離れる動機に関しても、東映版が織江の言ったヤクザは好かん、アカも好かんばいに反してヤクザの竜五郎もアカと呼ばれる金朱烈も両者とも好きな信介がここにおるんが苦しゅうなったとの思いから新天地を目指すことのほうが、東宝版での織江から指摘された自分の符の良さ【運の良さ】への心苦しさから、養母タエとも竜五郎とも縁を切って独り立ちをしようとする運びより遥かに納得感があった。独り立ちするということでの大学進学など、織江の十六歳での若松(東映版では小倉)での場末キャバレー嬢稼業とでは、およそ釣り合わない気がしてならなかった。ラストシーンでのバイク姿にしても、東映版での骨齧りに比して、トロッコに山盛りの符の悪い生涯を終えた白骨群に脅える苦しさから昭和二十九年の地方道とはとても思えない舗装道をハーレーに乗って走り去る姿ではえらく見劣りを感じないではいられなかった。この第一部筑豊篇については、東映版よりも東宝版を好む向きもあるようなのだが、なんだか不思議な気がして仕方がなかった。

 高校時分の映画部長からは配役比較について問われたのだが、東映版の5勝3敗としていた彼に比して、僕は東映版の6勝1敗1分けだった。その内訳は「信介」については、部長に同じ。「重蔵」については、熱い男ぶりは、クールさが持ち味の仲代より文太兄ぃだろうと思った。「タエ」についても、部長に同じ。吉永小百合の奮闘ぶりには感心したものの、同じように頬を張っても卑怯もん、それでん父ちゃんの子かの迫力において松坂慶子に及んでいなかった気がする。「竜五郎」も、部長に同じ。今回再見して、思っていたより小林旭もよかったが、やはり少々スマートすぎるように思う。「織江」については、五分五分だった気がする。「金」については、僕は渡瀬。もっとも、これは配役というより人物造形のほうで、東宝版は少々スマート過ぎて、東宝版の平吉の役回りも被せたところのある東映版の金のほうがよかった。「梓先生」については、配役で言えば、やはり関根恵子には及ばない。「矢部虎」も、部長に同じ。太かことばしおって血は争えんのうに軍配、となった。


 翌日に観た東映版『青春の門 自立篇』['82]は、第五福竜丸事件が起こった昭和二十九年の早稲田大学のキャンパスを、僕の在学時分のロケーションによって描き出していた東宝版に対して、砂川闘争が激化した昭和三十一年の早大キャンパスを、僕が卒業した二年後のロケによって描き出していて、ともに懐かしさ満載だった。

 敢えて昭和三十年代に移行させていたのは、僕の生まれた昭和三十三年に罰則施行のされた売春防止法前夜を強調したい意図があってのものと思われ、劇中でも、女性運動家による街宣と思しきスピーカーでの娼婦たちへの呼び掛けが流れていたのは、信介が入学した時分の『狂った果実』['56]のポスターから『OK牧場の決斗』「'57」に替わってからだったような気がする。女性活動家たちの如何ほどが娼婦暮らしの有体を知っていたのかとの投げ掛けは、同時に砂川闘争によって土地収用に抗していた農民たちと学生運動家にも向けられていたような気がした。というよりも、むしろそちらがあっての売春防止法施行前夜への時代設定の移行という気がしてならなかった。

 そのあたりの作り手の意図は決して悪くないと思うのだが、いかんせん人物造形における魅力の乏しさが致命的で、なかでも石井講師の差が大きく、自立篇は、東映版が東宝版に遠く及ばない最大の要因になった気がした。岡本喜八の肉弾['68]でも印象深かった特攻隊崩れの役回りを高橋悦史が演じた東宝版の石井が抱えていた“死に損ない感”に比べて、生き残り原爆被曝者として奇形児の誕生を恐れる余り恋人の理子(中島ゆたか)に堕胎を迫る石井(渡瀬恒彦)を観ていると、東宝版で織江に堕胎を求めていた信介のどうしようもないな、俺の若気のほうが遥かにましだと思った。理子に堕胎させた悔恨も手伝ってのカオル(桃井かおり)との心中未遂とくるのかと、かなり鼻白んだ。

 人斬り英治(萬屋錦之介)にまつわる顛末も“二丁目のローザ”ことカオルと石井の心中未遂に、妙に安っぽい色付けを加えていて、僕には響いて来なかった。おえいを演じた加賀まりこは流石だったが、彼らに限らず男と女の宿縁とも言うべき因縁深さを描き出そうとする余り、余計な口上が過ぎる脚本になっていた気がする。カオルにとっての英治との対置として卓治(火野正平)と石井を対照的に配したことで、カオルと石井の心中未遂という自立篇で最も重要な出来事が妙に説明された形になって何とも艶消しだったように思う。

 繰り返し出てきた♪赤とんぼ♪の歌は、何だったのだろう。よもや「アカとんぼ」などというもじりではなかろうと思うものの、カサブランカよろしくロシア民謡を圧していた織江の♪ぼんぼの唄♪同様に、この唄を用いた効果というものが妙に響いて来なかった。

 四十年ぶりの再見を叶えてくれた高校時分の映画部長からは、筑豊篇に続いて自立編も見たら同様に配役比較をやってみるよう言われていたが、3:2で東宝版に軍配を上げていた部長に倣うと、僕は、5:0で東宝版となった。その内訳は、カオル、石井講師、緒方先輩とも部長に同じ。人斬り英治:配役的には部長の意見に与するところもあるものの、役柄として東宝版。慶子(高瀬春奈)と卓治(火野正平)については、役柄の重要度が加味されて高瀬春奈。慶子と並べるなら、昌子(城戸真亜子)ではないかという気がしなくもないが、部長によれば高瀬春奈と城戸真亜子にしなかったのは、役のウエイトが違いすぎたから。東映の火野正平の役は東宝では軽すぎるから、サブメンバー同士の比較としたとのことだった。

 それにしても、筑豊の町をハーレーで旅立ちながら、なぜか夜汽車で東京に着いていたわりには、ハーレーを売り払った金も持っていないオープニングから、東宝版の夜汽車と違えてエンディングは青函連絡船となっていた自立篇については、圧倒的に東宝版のほうに僕の軍配は上がった。
by ヤマ

'22.12.24,25. DVD観賞



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