『ラブホテル』
監督 相米慎二


 石井隆の描く「村木と名美の世界」は、いわゆる世間からドロップ・アウトした男と女の、孤独で薄汚れた中での火花のような煌きとしての性と互いへのこだわりを描いている。そこには、屈折した心情を背景にしたハード・ボイルドなタッチがあるからこそ、火花が火花として煌くし、また、屈折した心情の中にある種、純度の高さを持ったものさえ感じさせるのである。しかし、この映画では画面からそういった硬質なものを感じることができない。原作の持つ、エロや情念とニヒリズムという異質なものの絶妙なバランスを映画化し得てこそ、石井隆の語るストーリーが生きてくるが、それができない以上、脚本に石井が参加したところで凡作としか言えない。最大の失敗は、相米がニヒリズムというポイントを看過し、センチメンタリズムに流されてしまったところにある。センチメンタリズムに流されたために、ハード・ボイルドなタッチは見られようはずもなく、基調となるべき哀切や空虚さが出てこない。また、それだから基調に引き立てられるはずのエロや情念といったものも火花のような煌きとなりようがなく、村木と名美の関係も説得力のない稀薄なものとしかなり得ない。

 商売(出版社)に失敗してサラ金地獄に落ち、身動きのとれなくなった男が自殺を決意し、その前に一度とラブホテルにデートクラブの女を呼び、やけっぱちな気持ちで女にSM行為を強要する。縛ってバイブレーターで責め立てるうちに女の肉体の持つエネルギーの凄じさに圧倒され、男は生のエネルギーを取り戻す。そうして何年かの後に偶然再会した男と女は、今度は日常性の側からの新たな出会いとして関わりを持とうとする。しかし、あの時のような煌きは二度と再現できない。そして遂に、同じラブホテルで同じ行為をすることによって契機としようとするのだが、行為の相同性によって再現のできようはずもない。いかなる天使であれ、日常性という地上へ降りてきた瞬間から天使は天使でなくなり、ただの女という存在に過ぎなくなったのである。その上、同じ行為を繰り返したことによって、むしろ煌きを得ることの絶望性を確信することになってしまったために、男は女の許を去って行ったわけである。記憶のなかの天使を失いたくはなかったのである。
by ヤマ

'85.11. 1. 日活



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