映画に愛をこめて アメリカの夜』(La Nuit Americaine)['73]
『暗くなるまで待って』(Wait Until Dark)['67]
監督 フランソワ・トリュフォー
監督 テレンス・ヤング

 今回の合評会の課題作は三年前に観た暗くなるまで待って['67]と十四年前に再見した『アメリカの夜』のカップリングで、両作とも演技力よりも見目麗しさで高い評価を得ている女優二人が遺憾なく演技力を発揮した作品の組み合わせとなった。どちらも既見作であることから、観てから、より時間の経っているほうから観ることにした。

 初めて『アメリカの夜』を観たのは大学に進学したばかりの '76年。ひまわりとの二本立てを早稲田松竹で観賞した。その次が2010年の午前十時の映画祭で、その日は民権ホールでエイゼンシュテインの『ストライキ』も観ている。

 映画製作あるある物語のような造りで、当時のメモには、初見時の記憶について映画制作に携わる人たちを何か特別な人種として描いている感じが鼻についた覚えがある。と記し、マニアには堪らなくても、なんか業界もの的な閉じた感じが気に食わなかったけれども、ジャクリーン・ビセットには魅了されたように思う。と残していた。若造アルフォンス(ジャン=ピエール・レオ)への苛立ちは相変わらず…(苦笑)と触れていたアルフォンスが繰り返していた女は魔物だと思うか?にちょうど重なってくるような悪魔のワルツのポーラを演じているのを観たばかりで尚更に、情緒不安から復帰したばかりのスター女優ジュリー・ベイカーを演じている姿がスリリングに映って来たように思う。

 映画は私生活と違って澱みなく進むとアルフォンスに言っていたのは、フェラン監督(フランソワ・トリュフォー)だったが、どこが澱みなくだとの観客からの突っ込みを想定した台詞としか思えない現場事情が縷々描かれている。まるでモテそうにはない役者の夫の行状を懸念して撮影現場に通い詰めていた夫人がこれが映画?呆れるわと言うのも尤もな現場だった。それにしても、ジュリーが所望した桶入りバターとは何だったのだろう。次々とトラブルが生じ、収拾の付かない現場にあって、常にマイペースで揺るぎない有能さを発揮していた助監督のようなジョエルを演じていたナタリー・バイが好い。

 十四年前に観たときは昔観た当時('76年)には、画面に映った何冊もの映画書籍のタイトルになっていた監督名のほとんどに思い当たることがなかったろうが、もろに作家主義に沿った巨匠名の列挙に尽く思い当たるようになっているのだから、今や僕もマニアの端くれなのだろう(苦笑)。 だから、かつて感じたほどの鼻のつきようはなかったものの、今なお少しそのような部分を感じるところに不遜ながらもささやかな自己満足を覚えた。案外まだそんなに毒されてはないのかもしれない(ふふ)。 その一方で、映画製作に携わるもの同士の仲間意識みたいなものを好もしく観る目も得たようだから、そこのところは年の功ということにしておこう。とも記してあった。

 それはともかく原題のLa Nuit Americaineは、字幕にあったように「アメリカ式の夜」としたほうが、その偽物の本物感がより判りやすく浮かび上がるような気がした。


 翌々日に観た『暗くなるまで待って』は、三年前に観た際悪党がこれほど悠長に手の込んだ芝居をするかねと思いながら観ていたと記した点は同様だったが、その割にヘロイン人形の運び屋リサ(サマンサ・ジョーンズ)を余りにあっさりと始末していることとの不釣り合いを可笑しく思いながら観ていたら、言うことを聞かないことに対して自分を悪い子呼ばわりしたことに腹を立てて物を投げ散らかして抗議したグローリア(ジュリー・ハーロッド)に向かってスージー(オードリー・ヘップバーン)が悪口を言うなんて心が曲がっている証拠よとの反省の弁を洩らした台詞が新鮮に響いてきた。

 僕がまだ幼い頃、確かにこういう感覚は普通にあったけれども、今や見る影もなくなっているからこそ、としか思えない恥ずべき選挙運動があり、その支持結果があると日米欧の政治状況が思い当たるとともに、この時分の映画には悪党にも悪党なりの筋とモラルがあるものとして描かれるのが常套だったことへの感慨が湧いてきた。特典にあったアラン・アーキンへのインタビューで彼が自身の演じたロートについて語っていたように、サイコパス的な不気味さを漂わせる犯人像というのは、この後かなり一般化したように思うけれども、本作のロートにおいてさえ、目的のためには手段を選ばない非情さのなかにも、故なき殺しはしないという節度が一貫されていたことが目を惹く。ヘロインを手に入れて用済みになったスージーを必ずしも始末しようとして逆になるという顚末にはなっていなかったように思う。

 リサ殺しは、それ自体が目的とも言える“裏切りに対する処罰”であったし、元刑事の前科者カーリノ(ジャック・ウェストン)と言葉巧みな詐欺師マイク・トールマン(リチャード・クレンナ)を始末したのは、リサ同様に二人が自分を出し抜いて、殺そうとしているとの疑心暗鬼による被害妄想からであって、いわゆる「素人は殺さない」との不文律を内に抱えているように感じられた。マイクに至っては、詐欺師としての技量の高さでスージーの信を得るだけでなく、彼自身が本当に彼女に惹かれていく人の好さを窺わせていたように思う。それも宜なるかなと思えるタフでクレバーなスージーを見事に造形していたオードリー・ヘプバーンに改めて大いに感心した。一週間ほど前に観たところだった異色の西部劇許されざる者['59]でのオードリーとの違いが際立っているように感じた。それを思えば『アメリカの夜』の冒頭でこの映画をリリアン&ドロシー・ギッシュに捧ぐとの献辞を送られていたリリアン・ギッシュがオードリー演じるレイチェルの養母マティルダを演じている奇遇を呼ぶカップリングでもあったわけだ。また、アラン・アーキンによるロート三態の変装の鮮やかさには、最近再見したばかりの博士の異常な愛情のピーター・セラーズも想起したりして愉しんだ。


 合評会では、メンバーの間で支持が分かれるだろうと予想していたのだが、案の定、二対二の五分の分かれとなった。実は両作ともあまり響いてこなかったと言いながら『アメリカの夜』のほうに投じたメンバーが、『暗くなるまで待って』は、あまりに突っ込みどころが多くて興醒めだったと指摘していたことが印象深い。確かにそのとおりなのだ。だが、ある意味、だからこそ『暗くなるまで待って』のほうに投じたところが僕にはあって、それだけ多くの突っ込み処がありながらそれが気に障ってこない運びの鮮やかさというか映画力に感心させられたからだと応じると、大いに面白がられた。

 驚いたのは『アメリカの夜』でジュリーが所望した桶入りバターの件で、実はあれはジャンヌ・モローが実際に行った我儘というか無茶振りだったらしいとメンバーから教わったことだ。いやはや手に負えない女優だなと呆れながらも、似付かわしそうなイメージがジャンヌにはあるように思えて可笑しかった。どこまで無理な言い分に応えて自分を立ててくれるか測っているのではないかとの感想を漏らしたメンバーの指摘に成程と思ったりした。気の進まない演技を強いられ応えることの代償要求なのではないかというわけだ。さすが現役時代に数多くの女性部下を抱えてマネジメントをしていただけのことはあると感心した。

 『アメリカの夜』については、四十八年前の若い時分に観て、いけ好かなく感じながらも、十四年前にはそこまで鼻にはつかなくなり、今や映画製作あるある物語として、けっこう面白く観るようになっている自分のマニア度の進行ぶりに苦笑を禁じ得ないところがあるという話とともに、旧知の映友が言っていた「映画好き監督の基準となっている作品」との言葉を添えて、観る側についても本作に対するスタンスの取り方で映画好き度の測れる物差しになる作品だと思うと言うと、大いにウケた。ドラマ的には何を語っているのか散漫ですらある同作は、さして映画に強い関心があるわけでもなければ、あまりピンと来ないというか焦点の定まりにくい作品なのだろうが、映画そのもののみならず映画づくりや映画を作っている人々に対する関心の強い人にとっては、堪えられない作品になるに違いことが、歴然としている映画だと思う。
by ヤマ

'24. 7.13,16. DVD観賞



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