『世にも怪奇な物語』(Histoires Extraordinaires)['67]
『博士の異常な愛情』(Dr.Strangelove:Or How I Learned To Stop Worrying And Love The Bomb)['64]
監督 ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ
監督 スタンリー・キューブリック

 カップリング作品として挙がっている『博士の異常な愛情』のほうが先行作なので、そちらから観るのが僕の習わしなのだが、それは既見作であることから、『世にも怪奇な物語』のほうを先に観た。

 冒頭にクレジットされるエドガー・アラン・ポーの言葉として自作に年代は関係ないというものがあったにしても、第三話「トビー・ダビッド」を除き、いかにも時代設定が判然としない物語だったように思う。原作小説は三話とも未読なのだが、原作がどうなっているのか、まるで見当もつかなかったのが第三話で、最も察しの付くものが第二話「ウィリアム・ウィルソン」だった。最も目を惹いたのは、衣装コスチュームの見世物劇とも言える第一話「メッツェンゲルシュタイン」だった。三話ともに通じて描かれていたのが、“人の乱行と神”だったような気がする。それで『博士の異常な愛情』とのカップリングだったのかと得心した。

 第一話【ロジェ・ヴァディム監督】は、わずか二十二歳にして巨額の遺産を手に入れた伯爵令嬢フレデリック(ジェーン・フォンダ)が、自分を拒んだウィルヘルム(ピーター・フォンダ)に腹を立て、彼の厩を焼き討ちにして図らずも彼を死なせてしまったことで見舞われたかのような黒馬への懸想が、ウィルヘルムの呪いだったのか、彼女の無意識なる自責の囚われなのか、どちらにも解せるような話だったような気がするが、原題のエキストラオーディナリーが示しているような並外れた(異常な)物語だったのは間違いない。最後にフレデリックの身を包んでいた業火は、何だったのだろう。オープニングの首吊り処刑の跡の映し方との対照からも、神による懲罰に見える描き方だったような気がする。

 顔に傷を負ったアラン・ドロンの走る姿で始まった第二話【ルイ・マル監督】は、母からの手紙だと言われて読まずに破り捨てる少年だったウィルソンが、もう一人のウィリアム・ウィルソンと出会って、まるで己がジキルとハイドがドッペルゲンガーとして現れ、煩わせることに錯乱したかのように自死する話だった。猟奇的なサディズムが第一話よりも遥かにあからさまに描き出されていたが、ポーの原作にもそのようなものがあるに違いない気がするのは、彼の名を採った江戸川乱歩の作品群のほうは、そこそこの数を僕も読んでいるからかもしれない。女賭博師(ブリジット・バルドー)の剝き出しの背に鞭打ちを加える取って付けたような場面に、江戸川乱歩の陰獣を想起したりした。そして、ウィルソンが目の当たりにしていた彼の分身を神父の口を借りて高慢から生まれた幻想としていたことが目を惹いた。

 制作年代とほぼ同じ時代設定にしていた第三話【フェデリコ・フェリーニ監督】は、マカロニウエスタンを揶揄したと思しきカトリック西部劇なる珍妙な映画製作に主演男優として、何故か英国から呼ばれていたという設定のトビー・ダビッド(テレンス・スタンプ)が、'60年代アメリカン・カルチャーの象徴とも言うべきLSDや麻薬を伴った飲酒で乱行の挙句に自死とも事故死とも言える最期を遂げる物語だった。トビーが執心し、その暴走運転によって死に至っていたイタリア産の名車フェラーリが象徴していたものをどう受け取ったか、合評会メンバーの意見を訊いてみたいと思った。また、ドライエル、パゾリーニ、フォード、フランチェスカ、ジンネマンと、数々の映画監督の名が登場していたことが目を惹いた。当時、フェリーニが気に掛けていた映画監督たちなのだろう。フランチェスカというのは思い当たらなかったが、誰なんだろう。そして、唐突で意味ありげな「少女」(悪魔)の存在をどう感じたかも訊いてみたいと思った。僕自身は、トビーの台詞にもあった「悪魔」との対照によって、フェラーリこそは“神なき時代の神”として君臨する即物的で魂のない崇拝の象徴として受け留めた。

 そのうえで、オムニバス映画作品としては、乱行を恣にしていたフレデリック・メッツェンゲルシュタイン、ウィリアム・ウィルソン、トビー・ダビッドについて、三人とも命を落とす顛末にしていた点が重要だという気がする。フレデリックは呪いや懲罰よりも自壊、ウィルソンも神による懲罰よりも自壊のように感じた。トビーの口を借りて悪魔と明言していた第三話は、そういう意味合いからは、時代設定のみならず一味違う設えの作品だったわけだが、三話並ぶと神と悪魔を同一視しているようにも映ってくるところが興味深い。エドガー・アラン・ポーの作品を通じて浮かび上がる彼の世界観にあるものなのかもしれない。加えて、現実と非現実(夢や幻覚)の混交というか、人が生きている世界は何処なのかという問い掛けも内包されている三話だったような気がする。


 翌日観た『博士の異常な愛情』は、十一年前に観た際のメモにアメリカの反共覇権主義は、ナチス的異常性とさして変わりなく、亡命マッドサイエンティストに冒されているとの皮肉はまだしも、稀代の危機的状況に対して、男一人に美女十人を宛がう人類生き残り計画のほうに心寄せ、早速にほくそ笑んでいる風情の男たちのストレンジぶりってのは、流石にやりすぎで、少々鼻白んだ。と記し、同年の二作で比較するならば、未知への飛行のほうを採るとしていた映画だ。

 観賞メモにR作戦を命じられた攻撃機のデジタル色ゼロのコクピットの様子が妙に新鮮で興味深く映ってきたのが、何だか可笑しかった。とも記していたが、今回の合評会の課題作として先に観た『世にも怪奇な物語』と併せ観ると、とんでもない乱行のうえピストル自殺をしたジャック・リッパー米軍司令官(スターリング・ヘイドン)が『世にも怪奇な物語』の三人とも重なってくるような気がしたのだった。

 それにしても、日米に今なお少なからず巣くっているような反共国粋主義者リッパーの乱行の発端がソ連の陰謀への報復であって、しかもその陰謀たるや彼の見舞われたと思しきインポが、飲料水にフッ素を仕込んだ共産主義者の謀略によるものだというのだから恐れ入る。

 同じピーター・セラーズの演じた三人の人物である、マンドレイク英軍大佐が持てあます上官リッパーとの遣り取り、大統領が呆れるバック・タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)との遣り取り、そして、本作のタイトルにもなっている圧巻のストレンジラブ博士の独壇場、いずれも十一年前に観たときよりも触発されるものがあったように思う。陰謀論なるものが蔓延る時代になっているからかもしれない。折しもクローズアップ現代で有機フッ素化合物が水道水に含有されていて健康被害が発生している疑いが濃いと報じられていた。


 合評会では、オムニバス映画のコンセプトとして“人の乱行と神”を受け取ったことによって『博士の異常な愛情』が第4話のようにも感じられて面白かったという僕の意見に対して、主宰者から『博士の異常な愛情』に“神”を感じたかとの問い掛けがあった。即座にまるで感じなかったばかりか『世にも怪奇な物語』にも“神”とか、まるで思いもせずに、人間の欲と業による破滅の物語だと思って観ていたとの意見が返ってきた。

 僕も十一年前に観たときは、神そのものではなく、神の如き視座に立って映画世界を構築するキューブリックらしい超越的な俯瞰視線をバリー・リンドンやらスパルタカス2001年:宇宙の旅らと同様に感じていたのだが、“人の乱行と神”を描いた『世にも怪奇な物語』と併せて観たことによって、今回はキューブリックの視線というよりも神の視座のほうを強く感じたのだろう。オープニングの“霧に包まれた島”というよりは、“雲海に浮かぶ島”のようだったオープニングシーンの雲と呼応するような形でキノコ雲があちらこちらから湧き上がって来るラストシーンを観ながら、そのように映ってきたところが今回の観賞の一番の妙味だという気がしたのだった。

 共通テーマに“神”を加味するか否かの論議において、そういった異論の提起を受け、主宰者が“神をも恐れぬ所業”というのはどうかと問い掛けてきたことに感心した。なるほど上手い納め方だと思う。また、主宰者からは、『世にも怪奇な物語』の三話についての支持順の問い掛けがあった。第二話を最も高く支持する者が二名、第三話を支持する者が二名、第一話は僕一人だった。他方で最低位のほうは、第二話が二名、第三話が二名、第一話が一名と最高位と同じ票数に分かれたのが興味深かった。

 僕は上位から第一話、第三話、第二話の順としたのだったが、理由を訊かれて「想像力を刺激される度合いの順」だと答えた。第一話の早々に現れる絞首刑のイメージの提起していたもの、フレデリックの射た矢が少年を吊るした縄を切ったのが彼女の狙ったものか人智を超える意思の為したことなのかといったもの、ウィルヘルムの語った女狐と罠にしても、最後の業火に至るまで様々にシンボリックなものが現われ、中世風の舞台にモダンな衣装をまとった物語世界が目を惹いたからだった。僕が最低位に置いた第二話を最高位にしたメンバーに理由を問うと、三話のなかで最も明快だったからとのこと。奇しくも同じ理由で順位がちょうど逆になっているところが面白かった。わずか三話のオムニバス作品なのに、五人のメンバーで付けた順位がぴったり重なったのは一組だけだった。

 続いて『博士の異常な愛情』を加えた四話だとどうなるか、との問い掛けもあったが、確かに四話目に加えても可笑しくない物語ながら、オムニバスを解体したものに加えて順位づけるよりも、課題作の二作への支持を確認してみたら、ということになって決を採ると、それぞれ二票に、甲乙つけがたし一票となった。そして、雌雄を決すべく強いて挙げれば、ということで『世にも怪奇な物語』のほうに軍配が挙がった。これに関しては、個別には1話、博士、3話、2話だけれど、この三話を括ってオムニバスにした『世にも怪奇な物語』の秀逸さが一頭地抜きん出るというのが僕の感じだ。合評会では、重厚な貫録を感じさせるジョージ・C・スコットに、いかにも成田三樹夫が得意とする軽薄さと下品さを思わせる演技をさせたキューブリックに感心したと言ったことが思いのほかウケて可笑しかった。




*『世にも怪奇な物語』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid0nwbcJY2DmW4py9v
XoVMYRAJWn2vfftqwMKkboKQ9opc1YfdqHxodtBeudAq2cyeCl

by ヤマ

'24. 6.12. DVD観賞
'24. 6.13. DVD観賞



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