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“高知あたご劇場で楽しく学ぶ無料上映会”第4弾
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テッケン主催による“高知あたご劇場で楽しく学ぶ無料上映会 第4弾”。今回は、「撮影所システムが機能していた時代の映画を見つめなおし、楽しく学ぶ」と謳われていたが、いよいよ35mmの手持ちフィルムも尽きたので、これで最後だそうだ。 初日4/29の『怪談蚊喰鳥』('61)は、七年前の美術館での企画上映“怪談映画大会”で観ていたから、今回は見送り。2日目のプログラム『怪談累が渕』('70)は、初見のような気がするが、思いのほか面白かった。七年前に『怪談蚊喰鳥』を観て綴った拙日誌には「色と欲に囚われたときの人間の性根の悪さがよく描かれていた」と記していたが、本作もまた、そのような作品だった。 主宰者が上映前のトークで「最近の即物的なホラーに慣れている若い人は、こういう昔の怪談映画を観ても少しも怖くないとバカにするけれども、一番怖いのは幽霊や怪物ではなくて人間なんだということを描いているのが怪談で、その人間の因果応報が描かれているところが怖いのに、何も分かっていない」と話していたが、奇しくも先頃観た『ラブリーボーン』の拙日誌に綴ったことと符合していて、妙に可笑しく思うと同時に、興味深く感じた。 先日シネコンで北野武監督の新作の予告編を観たときに「全員悪人」というキャッチが映し出されたが、本作も宗悦の娘お園(丘夏子)以外まさしく「全員悪人」。三年前に観た中田秀夫監督の『怪談』の甘っちょろい新吉に比べ、今回の新五郎(石山律)には哀れの影など漂う余地もない。女性陣も錚々たるもので、旗本・深見新左衛門(伊達三郎)の妾・おくま(笠原玲子)は、旦那の妻に当て付けるように閨房の様子を襖一枚隔てて聞かせ、新左衛門が金貸しの座頭・宗悦(石山健二郎)を殺して奪った金も猫糞するし、お志賀(北島マヤ)も父・宗悦の蓄えた金を盗み出し、奉公先の女主人お関(近江輝子)の借金の肩代わりをして得た証文で店を乗っ取り、元主人を下女として使って優越感に浸っているし、お関は恨み余って、お志賀を二目と見られぬ醜い顔に火傷を負わせる。養生の床に付いたお志賀を使用人皆が見捨てるなか献身的に看病していたお久(水上竜子)も、とどのつまりはお志賀が奪い取ってきた宗悦の金を盗み出して、お志賀と指詰めの契りを交わしていた新五郎と逃避行に出る始末。そして、いずれもが因果応報的な死に至るわけだ。 畢竟、累が渕とは、色と金の欲を重ねて逃れられない人間の業の渕のごとき深さのことなのだろう。露出には乏しいけれども、濡れ場がやたらと多い嬉しい怪談だった。 3~5日目のプログラム『四谷怪談 お岩の亡霊』('69)、『秘録怪猫伝』('69)、『おさな妻』('70)は、子供たちの帰省で見送ったが、6日目5/5の上映作品『夜の診察室』('70)を三十年ぶりに再見した。今はなくなってしまった高知日活で僕が観たのは、大学を卒業して帰郷した'80年。竹下景子のヌードが映る『祭りの準備』('75)、関根恵子の『成熟』('71)と併せ、“とりぷるケイコ”の三本立てで観て以来となった。当時の記憶では、三作品のなかでは最も見劣りがするものの、三人のケイコのなかでは松坂慶子の美人ぶりが最も際立っていた覚えがある。 今回再見して先ず思ったのは、冒頭のナレーションでの松坂慶子の声と喋り方が今とほとんど変わりがないことの驚きと、いかにも四十年前のモダンを感じさせる70年代らしい化粧や服装の面白さだった。性開放による情報の氾濫が与えたものは、自由よりも不安ないしは欲求不満であり、焦燥であることを映し出していて、ちょうど先ごろ読んだばかりの田中亜紀子著『満足できない女たち』で、'85年の男女雇用機会均等法制定直後に社会に出た第一世代から始まる“アラフォー”と呼ばれた女性たちが強迫され続けているものとされていた自己実現の問題にも通じるところのあるもののような気がした。 セックスカウンセラーというものが職業として成立し始めたのが、ちょうどこの頃だったのだろう。映画作品そのものは、ライトでコミカルな風俗画とも言うべきもので、プレイボーイで鳴らす売れっ子官能小説家 榊(峰岸隆之介[徹])と幾人もの恋人との特異な性行動を披歴する心理学専攻の女子大生 麻生梢(松坂慶子)が、表層とは異なって実際のところは、むしろ古風に留まっていたのだが、若い男女が自分たちの身の丈に即した凡庸な収まりに帰着することを以って、不易流行を描こうとしていたとは言えるかもしれない作品だと思った。 斯界の権威とされる精神科医の麻生(高橋昌也)の受ける性のお悩み相談とその顛末の珍妙さに、場内から中年女性の明るい笑い声がいくつも聞こえてきたのが、なかなかいい効果音となる懐かしくも楽しい上映会だった。 7日目5/8のプログラムは、鶴田浩二主演のスニーク上映会とされていたが、『黄金の犬』('79)という思い掛けない作品で、最初に昭和53年というクレジットが入り、そう言えば、あの頃、強烈なバイオレンス&セックスの作家として西村寿行が人気を博していたことを懐かしく思い起こした。殺し屋の田沼(地井武男)が狙う汚職官僚の永山(夏木勲)の妻(池玲子)に「脱げ!這え!」と命じて後背位で犯す早々からの場面に、これが寿行作品のトレードマークだったことを思い出した。 なかなか姿を現さなかった鶴田浩二に対し、どこが主役なんだろうと訝しんでいたのだが、寿行作品お得意の執念の復讐譚の主役は、妻子を殺され、闇組織から命を狙われ追われていた永山ではなく、一応は確かに鶴田浩二の演じた安高警視だった。だが、キャメラが主役として追っていたのは、題名どおり犬のゴローだったような気がしてならない。 アザラシと犬の格闘場面が出てきたのには驚いた。しかも怪獣大決戦的な撮り回しだ。この場面やゴローの疾走場面は、絵としての力もそこそこあったけれども、高地から一斉に警察犬のような訓練犬の一団がゴローに襲い掛かる場面の「西部劇のインディアンの襲撃場面」もどきとか、第二陣のバイク隊がゴローに撹乱される場面とかのアクションシーンの演出の滑りようには思わず絶句した。前半のサスペンス調のドラマ展開をしてたときは、けっこう面白く観ていたのだが、見せ場を設けようとしたことが仇になっているような気がした。 それにしても、安高警視に心を寄せる若き未亡人を演じた島田陽子が二十代半ばのときの、気品のある美人ぶりには感心させられた。何を思って行動しているのかよく判らない不思議な女性だったが、安高警視の目の前で田沼に嬲られる場面は、けっこう見ものだった。 8日目5/9最終日のプログラムは、初の外国映画『未知への飛行』('64)だった。僕が観るのは、日本初公開の1982年以来になるのだが、題材のスケール感から掛け離れた、こじんまりした設えの室内劇に近い作りながら、今なお色あせないどころか、現実に核軍縮に向けてアメリカ大統領が意思表明をするに至った今現在において再見する意義は、決して小さくない秀作だと思った。 同じルメット作品の『十二人の怒れる男』('57)で、稀有なシチズンシップを備えた無私性の高い陪審員を演じていたヘンリー・フォンダが、それ以上に無私性の高い決断を冷静に下す勇敢で強い米大統領を演じている。 高度な機械制御による統制の「精度とリスク」が同時に描かれていたが、軍人として高い精度で使命をまっとうできるよう、機械的な行動にブレを来たさない訓練を施すことが、ちょうどコンピューターなどによる機械制御の負っているリスクと本質的に同じであることを、三十年近く前に観たとき以上に強く感じた。 それは、半世紀以上前の本作で既に台詞として書き込まれていた「昔と違って、若い連中がすっかり機械的になって、ここも最早、人間的なものが失われてしまった」というようなことが、現在は、マニュアル化やIT化とともに、当時とは、それこそ比較にならないくらい浸透してしまっているからかもしれない。 当然ながら、TVゲームもなかった時代の作品なのだが、機械制御の事故によって起こった米ソの戦意なき開戦状態を前にして、モスクワの水爆攻撃に向かう飛行隊が戦略どおりの攻略を遂げつつ侵攻していく姿に思わず歓声を上げる指令部員たちに対して「これはゲームじゃないんだぞ」とボーガン将軍(フランク・オバートン)が一喝する場面があったのが印象深い。 やはり手に負えないような代物は、誰もが持たないようにしないといけない。それなのに、世の中全体が、手に負えない代物を手に負えない仕組みに委ねることでますます手に負えなくなるようにしてきている感じが強いのが、この作品が撮られてから半世紀を越えた今の現実だという気がする。今やもう本当に、誰一人責任を負いきれない仕組みになっているように思った。 | ||||||||||
by ヤマ '10. 4.29.~9. あたご劇場 | ||||||||||
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