『2001年:宇宙の旅』(2001:A Space Odyssey)
監督 スタンリー・キューブリック


 初見をブラウン管にはしたくなくて、二十年間待った作品をようやく観ることができた。作品自体は三十三年も前のものだ。僕が十歳のときである。70年代後半から80年代にかけての僕が二十歳前後の時分には、雑誌「ぴあ」がやっていた読者選出の再映希望ベストテンとも言うべき「もあテン」で毎年のように第1位を続けていて、年に何度かは名画座上映をしていたものだから、いつでも観られる気でいた。そしたらあるときから突然ぱたっと上映されなくなり、返す返すも悔しいという思いにとらわれていたのだが、2001年になれば必ず観る機会があるはずだと我慢し続けてきた。いろいろな場面で、なんで君が観てないんだ?と訝しがられるたびに、半ば開き直りながら悔やんだものだった。

 普通、それだけのいわくがついてしまうと、抑えてはいるつもりでも積もり重なった期待に、観てしまうと気落ちするのではないかと不安もなくはなかったが、とんでもない杞憂だった。幸いにして、観る前から作品について知っていた具体的なことがわずかしかなくて、猿人が投げ上げた骨が宇宙船に変わる編集のこと、リヒャルト・シュトラウスの音楽、コンピューターの名前が“HAL”ということくらいでしかなかったから、謎の黒石板に驚き、道具を手にし始めたときから殺し合いを始める人類の祖先の描写やらさまざまな未来イメージのどれもが新鮮で、感心していた。なかでも可笑しかったのは、宇宙船の中で娯楽にテレビ視聴しているのが柔道の試合だったりしたことやグリップ・シューズなる履き物、およそ感動を呼ぶような内容ではない演説に寄せられた「感動した」との賛辞の台詞だった。お偉い人たちが勿体振って交換している自分たちの弁舌について、お互い同士でのみ褒め讃え合っているナンセンスさに対する揶揄だろうが、そこには悪戯心が満ちている。

 しかし、真骨頂は間違いなく、映像と音楽の調和が醸し出すイメージの喚起力だ。会話のある場面に比べて会話のない場面のほうが多くて、なおかつそちらがこれほど圧倒的に力のある劇映画というのは、滅多にあるものではない。スクリーンに何も映さない状態で延々と音楽のみ流す大胆さをオープニングでもエンディングでも見せつけ、過剰なまでに緩やかな展開スピードでありながらいささかも退屈させない映像と音楽には、今尚いっこうに色褪せない新鮮な興奮があった。太陽、月、地球を重ねた状態から少しづつずらし、立ち昇るように見せながら鳴り響くリヒャルトの「ツァラトゥストラはかく語りき」を聴いたときには背筋に走る震えがあったし、それ以上に、もうひとりのシュトラウスであるヨハンの「美しく青きドナウ」の延々と続く調べに乗って映像に酔い、ワルツにたゆたう心地好さには、麻薬的な魅力があった。

 そういうなかで、というか、そういうなかだからこそ言葉として特に印象に残ったものが“オリジン(origin)&パーパス(purpose) ”であった。“正体と目的”と訳されていたが、やはり“起源と目的”だろう。黒石板の正体と目的と解するよりは、人間や宇宙も含めた存在の起源と目的と解するほうが遥かに作品に適っているし、それへの探求心と見届けようとする意志こそが、クローズアップされた眼の映像の反復が喚起してくれるイメージだという気がする。だからこそ、この作品は「人類の夜明け」という章から始まるのだろう。そして、黒石板というのは人間をそれまでに未踏だった領域へと新たに踏み込ませる標のようなものであり、それゆえに記念碑的な形状をしているのだと思った。道具を使う生き物の領域に誘い、未知なる木星へと誘い、遂には「存在の起源と目的」を見届ける旅へと誘う。

 ボウマン船長が目撃体験した世界のイリュージョナルなイメージは、当時としては、さぞかし斬新なものだったろう。光と色が明滅する無機的で規律性のある映像に加えて、山や谷、海や滑走路などを空撮した風景を素材にして加工した、自然のダイナミズムを孕んだ抽象性の高い映像がのびのびとしたリズムで展開される。しかし、その加工処理の仕方と喚起するイメージについては、『2001年:宇宙の旅』に先んじるDOG STAR MAN』['61~'64]を想起させるものでありながら、そちらのほうが尚すぐれているように思えたので、改めてスタン・ブラッケージ監督の力量に感じ入りもした。

 それにしても、キューブリックは、よくよく狂気に関心があるのだなと思った。コンピュータ-としては狂ったのであっても、人間に置き換えてみれば、それが目的遂行意識の現れであれ、下克上的権力闘争であれ、自我の獲得による反抗であれ、異常なことではない。畢竟、狂気とは“ out of order ”であって、場合によっては、単に極めて人間的であることに他ならない。そして、コンピューターHALが、最も人間臭かった場面が立場逆転して追い詰められたときに見せた、往生際の悪さだったりするところにキューブリックらしさが窺われる。

 まさしく“オデッセイ”と呼ぶにふさわしい、「存在の起源と目的」を見届ける長い放浪の旅の果てにボウマン船長は深い皺を刻む老人をも通り越し、生命の途切れをきたさずに生まれ変わりを果たしたようでもあった。地球を見つめる、かの存在はいかなる領域に立ち至った存在なのであろう。そんな思いに誘われつつも、このイメージさえもボウマン船長が目撃体験した世界のなかのことのようにも思えた。固定された物語ではなく、観る側が触発されるものによって、いかようにも受け取っていいのだろう。そういう意味では、実にさまざまなものを触発してくれる、刺激的でクリエイティヴな映画だった。そして、二十年待ってでも初見をスクリーンで果たせたことがしみじみと嬉しくなる作品だった。



推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/2001_ef7d.html
by ヤマ

'01. 9.18. 県民文化ホール・グリーン



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