『狼』['55]
『鉄輪』['72]
監督・脚本 新藤兼人

 先に観たのは、『狼』。翌年度の経済白書で「もはや戦後ではない」と復興宣言がされる前年の話だが、お国が経済統計指標を見て言うほど、庶民の暮らし向きがよくはない有様が、何とも哀しく切なく綴られていた作品だったように思う。

 六十八年も前の映画作品で、そこにクレジットされたスタッフ・キャストで存命なのは、新婚三ヶ月で出征した夫を戦争で亡くし母子家庭となっていた矢野秋子(乙羽信子)のミツクチに生まれた小学生の息子義登(松山省二)くらいではなかろうかと思われるのだが、貧困ゆえの犯罪加担に追い込まれる素人集団が現れる状況は、まるで現今の闇バイトへの応募を思わせるところがあった。改めて我が国は、一億総中流とさえ言われた時代も迎えながら「頑張った者が報われる」などという欺瞞に満ちた美辞のもとに露骨な格差社会への転身を遂げ、すっかり戦後復興期に近い惨状に回帰しているような気がしてきた。ネットやTVで奢れる者が幅を利かせる厚顔無恥な有様には、戦後復興期とは比較にならない実に鼻持ちならないものがあるように感じる。

 それでも、現今の素人集団による犯罪の惨状と見比べて、七十年前の強盗団のなんと奥床しく、慎ましいことかと、主犯と報じられた吉川(菅井一郎)や原島(浜村純)の物言い物腰に感じ入っていた。強奪して得た金の使い道にしても、昔の職場の組合運動に千円カンパする三川(殿山泰司)、サイレンの音に不安を誘われながら町の中華屋で今日はいくら食べてもいいのよと子ども二人に追加注文を促す藤林(高杉早苗)と、涙ぐましいばかりだった。そして、バブル経済期に底の抜けた“厚顔無恥なる力の行使を以て当然とする風潮”に毒された、他者に対する想像力を著しく欠いた人々を増殖する社会になり果てた今のことを思った。

 そういう意味では、いま観てこそ、より感慨深い作品なのだが、本作がTV放映されることは絶対と言っていいほどにないだろう。生命保険業界から猛烈な反発を喰らうことを恐れて、手出しできないような気がする。保険勧誘員に応募してきた二十二人の全員を試験採用して低給で競わせ、縁故者開拓に半年かけて追い込んだ挙句、ノルマを達成した二人だけ正式採用して、あとは切り捨てていく業態のやるせなさがなかなか痛烈だった。勧誘員から幹部にまで上り詰めたことを訓示で誇る支社長を演じたのが東野英治郎で、池袋支店で陣頭指揮を執る部長を演じていたのが小沢栄、採用面接をしていた営業課長が三島雅夫と、いかにもな布陣がツボを押さえていて感心した。ダンサーをしている隣家の娘の紹介で得た二百万円の契約に入ったレントゲン診断チェックに対して秋子が不正工作を医師(宇野重吉)に働き掛ける展開に、上司からの指示場面はなかったけれども、新人の秋子が自ら思いつくことではない様子が有り体に描き出されていたように思う。

 それでも、桜組十一人のうち月千五百円の基本給にしがみつくほかなくて最後まで残った五人が、どうにもならなくなって郵便車両に搭載された現金強盗を行うわけだが、物語を観る限りどう観ても狼ではなく迷える子羊という外ない五人を新聞の見出しにて「群狼」と一括りにする報道メディアの報じ方もまた、現今のジャーナリズムと寸分違いがない気がする。その「狼」を作品タイトルに持ってきている脚本・監督の新藤兼人に改めて敬服した。オープニングのみならず襲撃場面に再登場する“幼虫の巨体に群がる数匹の蟻”の図と“狼”の落差と対照が、まことに印象深い。さすが百歳まで生き、白寿にて遺作となる監督・脚本作品一枚のハガキを公開した怪物新藤が、不惑の四十代に撮り挙げた監督・脚本作品だけのことはあると思った。


 その『狼』から十七年後、ちょうど還暦の歳に撮った『鉄輪』には、まさにタイトルさながら怪物新藤には「かなわんなぁ」と恐れ入った。近代映画協会作品ながらATG配給だけあって、無駄に裸が出てくるのは定型とも言うべきところだが、それにしても、この大盤振る舞いには唖然とさせられた。

 能面姿から始まったとおり、能の演目「鉄輪」をベースにして、牛車の歩む平安の古から変わらぬアダビト【浮気人】(観世栄夫)と愛人(フラワー・メグ)への奥方(乙羽信子)の嫉妬と怒りをシンプルで戯画的なリフレインで描いた作品だ。大日本帝国時代の佩刀警官(戸浦六宏)や街角の占い師(殿山泰司)の言葉ではないが、畢竟世に凄まじきもの、女の執念なりを訴えていたように思う。古典芸能を取り込んだ奇抜なスタイルという点では、本作に三年先駆けた秀作心中天網島に及ぶところではなかった気がするが、齢還暦にして鉄輪の映画化という旺盛ぶりに畏れ入った。

 丑の刻参りで藁人形に打ち込む五寸釘は専ら胸としたものだが、ひたすら股間に打ち込む奥方だった。その呪いに感応し、股間を抑えて苦悶する愛人の姿が映倫的局部隠しとは言えない形になることに感心しつつ、いかにもで可笑しかった。印象深かったのは、全裸に薄衣を掛けて横たわる愛人と浮気人に対して、頭上に三本の足ならぬ蝋燭を立て、釘打ちの音を響かせながら杖で打擲を加える図だった。『八つ墓村』['77]の辰弥(萩原健一)は鬼の角のごとく二本だったが、三本の足を受けてか、三本の蝋燭を立てた鉄輪の鉢巻きをしていた姿が目を惹いた。鬱陶しくなるほどに繰り返されていた電話のベルの呼び出し音は、奥方の打ち込む釘の音の響きが霊的に伝播してきているものなのだろう。なにせ奥方が番号を知るはずのないホテルに逃げて来ても、電話機のないプールサイドにいても、鳴り響いてきていた。また、ひたすら走らされている乙羽信子の姿が『狼』のときの小走りに比して、とても板についていることに感心した。裸の島['60]での水汲みの繰り返しを思い起こしつつ、さぞかし鍛えられてきたのだろうとの感慨を覚えた。

 いずれも初見となる今回の課題作を観て改めて思ったのは、新藤兼人のエネルギッシュな仕事ぶりだ。還暦を迎えてはいても、『鉄輪』の後四十年、生涯現役を貫いたのだから、このくらいの意気軒昂はむしろ当然だったのだろう。怪物たるゆえんだと改めて思った。生保業界にも伝統芸能界にも、てんで忖度せずに己が表現したいことを存分にやってのける怪物新藤の揺るぎなき一貫性を検証できて、大いに有意義なカップリングだった気がする。いまの映画業界にこういう作品づくりのできる御仁は最早いないように思う。

 俗物図鑑』と『スタアのDVDの販促予告にあった『鉄輪』を課題作品にリクエストしたところ、カップリングには何をと問われて挙げた『狼』だったわけだが、ある意味、怪物新藤の二大テーマとも言える“社会派”新藤兼人が描き続けた、もう一つのテーマ“性と生命力”“女性讃歌”。強虫女と弱虫男上映会主催者【Movie Junky】のリーフレットへの記載による)という点からも、なかなか興味深い取り合わせになっていたのではなかろうか。

 それにしても、生保業界の有り体を描いた『狼』であれ、能の演目をひたすらセックス場面と交互に繰り返した『鉄輪』であれ、製作当時に業界からの苦情はなかったのだろうか。今だと考えられないような大らかな“大人の時代”でもあったのだろう。自分が高齢者の域に来ているからかもしれないが、いずこを見渡しても幼稚化しているようにしか思えない現今の社会状況(とりわけTV番組と政界に顕著な気がする)にあっては、かつてのような面白い映画作品を輩出するのがより困難になっているように思えて仕方がない。




『狼』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5523601387739399/
by ヤマ

'23. 4. 4,5. DVD観賞



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