『偶然と想像』(Wheel Of Fortune And Fantasy)
監督・脚本 濱口竜介

 少々すかした印象が肌に合わなかったドライブ・マイ・カーよりも格段に面白かった。

 第一話「魔法(よりもっと不確か)」で、ツーのつぐみ(玄理)がカーの和明(中島歩)と過ごした「十時間を超えて対話した時間」を“魔法”と言っていたけれども、かつて自分のサイトの掲示板での談義でも僕は“言葉のセックス”というものを信じているようなところがあります(あは)。(テレフォン・セックスのことではありません(笑)。)などと言っていた僕には、とても響いてくるところのある作品だった。そして、恋人までの距離(ディスタンス['95]のことを併せて思い出したりした。

 第一話にそれを持ってきていたように、三話とも言葉の遣り取りたる“対話の妙”が非常にセンシティブにスリリングに描かれていて、大いに感心した。沁みる言葉、刺さる言葉、切りつける言葉、癒す言葉、数々の台詞のニュアンスの豊かさが素晴らしく、その言葉の流れや行動がふとした偶然によって左右され、その後の運命(Fortune)が変わりかねない人の生のファンタジックな覚束なさ(Fantasy)をよく表していたように思う。対話を交わしていた人々を巡る関係性は、呆気にとられるような、だが、決してあり得なくはない偶然によって結ばれていたが、偶然と言うよりは、ちょっとしたアクシデントのようなものにも左右されるのが人の生であることを抜かりなく周到に配していたところにもまた、大いに感心した。

 第一話の和明は、部下の女性社員がPCを取りに戻らなければ、芽衣子(古川琴音)をそのまま追ったのだろうし、第三話「もう一度」の夏子(占部房子)は、宅配業者があや(河井青葉)の息子宛ての荷物を届けに来なければ、あのまま帰途についていたはずだ。第二話「扉は開けたままで」での主婦大学生の奈緒(森郁月)による誤送信は、ちょっとしたアクシデントでは済まない事態を引き起こしていたが、あのアドレス確認をしないままの慌てた送信は、思わぬタイミングでの夫の帰宅がなければ、未然にチェックされていたかもしれないという感じの運びにしてあった。ある意味、五年後にバスで佐々木(甲斐翔真)と乗り合わせる“偶然”などより、ちょっとしたアクシデントの配し方のほうに上手さを感じた。ただ、研究室の扉を閉めた奈緒の挑発にさえ、扉は開けたままにし直した瀬川教授(渋川清彦)の慎重さにあって、メールの送信先を職場のドメインにするはずがない気はした。

 第一話のタクシーでの芽衣子とつぐみの対話、オフィスでの芽衣子と和明の対話、第二話の教授研究室での奈緒と瀬川の対話、バスでの奈緒と佐々木の対話、第三話のあやの家での対話、陸橋での対話、いずれも妙味に溢れていたが、最も自然さに溢れていた対話を第一話の最初に配していて、一気に引き込まれた。特に印象深かったのは、最もスリリングだったオフィスでの芽衣子と和明の対話、最も感情の揺らめきにニュアンスが豊かだった研究室での奈緒と瀬川の対話だった。

 芽衣子が和明のオフィスに向って駆け出していた高架下の舗道には、愛の新世界での山崎ハコの歌う今夜は踊ろうのなかを夜明けに向かって二人で駆け出していく中盤の場面を想起した。また、学生時分に文芸サークルで詩作や小説をものしていたことのある僕には、電話越しながら女性の友人に自作の朗読をしてもらった経験があり、シチュエイションは瀬川と奈緒の場合とは全く異なるけれども、非常に特別な時間が流れたことを痛感した記憶がある。もし録音されたものが残っていれば、瀬川教授ならずとも切望したことは想像に難くない。監督・脚本を担った濱口竜介には、きっと同じような体験があるに違いない気がした。

 聞くところによると、本作は、七話のオムニバスで企画されたものの三話による映画化とのことだ。いずれの対話も味わい深かったが、作品的には、第三話には流石に拵え感が漂っていたような気がする。残りの四話も観てみたい思いが湧く一方で、三話のオムニバスで映画祭に出品したのが賢明だったようにも感じた。
by ヤマ

'22. 5.14. あたご劇場



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