『冬のライオン』(The Lion in Winter)['68]
『ロミオとジュリエット』(Romeo and Juliet)['68]
監督 アンソニー・ハーヴェイ
監督 フランコ・ゼフィレッリ

 今回のカップリングは、同年製作の時代劇イギリス映画だった。先に観たのは『冬のライオン』。名のみぞ知る宿題映画だったが、なんとも凄まじい王族一家の物語で、もはや愛憎劇とも言えない憎欲劇に唖然としながら、持たざる者の幸いを思いつつ、持てる者の不幸に呆れ返った。思わず噴き出したのが、イングランド王ヘンリー(ピーター・オトゥール)がフランス王からの略奪婚によって領地諸とも手中にしながら、拗れた夫婦仲に幽閉までしていた王妃エレナ(キャサリン・ヘプバーン)の呟いた台詞だった。どの家庭にも浮き沈みはあるわなどと言うものだから、そんなレベルじゃないと思った。笑いを取りに来ているような場面ではないだけに余計に可笑しかった。劇中に1183年とあったから、イングランド王ヘンリーは、獅子心王リチャードの父ヘンリー2世ということになるようだ。

 半世紀近く前に観た邦画『華麗なる一族』['74]以上の爛れた家族関係に呆気にとられつつ、“どの家庭にも”などという卑近さの欠片もない造形されていた映画世界の“単なるカリカチュアライズを突き抜けた過剰さと倒錯”を思って、邦画の蒲田行進曲['82]とラプソディ オブ colors['20]を想起した。それは、偏に本作中の王族家族間で交わされていた言葉の応酬と振る舞いのなかに浮かび上がっていた“虚実”ぶりに圧倒されたからだろう。まるまる本心では決してない虚言の底に透ける本音の色模様が、言葉の極端さと裏腹に微妙で、けっこう複雑な色合いを見せていたように思う。

 昨今の過剰にリアリズムというか、卑近な尤もらしさに寄ったドラマにばかり親しんでいる観客からすれば、いくら史劇の形を採っていても余りに芝居がかった“あり得なさ”にばかり気を取られて馴染めないのではなかろうかと思われるほどだったが、さればこそ、虚構性のなかに浮かぶ真実性というものの醍醐味に触れられる作品のような気がする。

 ヘンリーの次男、リチャード(アンソニー・ホプキンス)との同性行為をヘンリーに言挙げていた後の仏王フィリップ(ティモシー・ダルトン)にしても、父王と自分の同衾を疑ったことはないかと夫を挑発していたエレナにしてもそうだったが、相手にダメージを与えるためにしても相手の歓心を買うためにしても、全く言葉を選ばない節操のなさが登場人物の全員において徹底していて、圧巻だった。

 ヘンリーの叫ぶ誓いは神への冒涜、署名は紙の無駄の言葉どおり、“カミ”をも恐れぬ形振り構わない剥き出しの闘争心と権力欲への囚われには、ほとほと恐れ入った。財欲などいっさい覗かせず王妃エレナを諫めていた憂い顔の美しい愛妾アリース(ジェーン・メロウ)にしたところで、父親の権勢を我が物にしようと画策した三人の息子全員が自分を裏切って仏王に接近したことを知って息子は皆死んだと嘆いたヘンリーから妻と離婚して王妃に迎えるから息子を産んでほしいと言われてチャンスを得た途端に忽ち同じ穴の狢になってしまい、ヘンリーの死後の保証が得られないから三人の息子を葬っておいてほしいと言い出し、王の顔を曇らせていたのが痛烈だった。

 このところ続けて観ているBS日テレ中国時代劇 三国志~司馬懿 軍師連盟での魏王曹操の跡目争いでもそうだが、持てる者の陥る疑心暗鬼、権謀術数のもたらす悲劇の愚かさは、古今東西、尽きることがないと改めて思った。
 
 
 三日後に観た『ロミオとジュリエット』は、十二年前にTOHOシネマズの【午前十時の映画祭】で三十六年ぶりに再見して以来の再々観賞だ。映画から受ける想いについては、再見時とほとんど変わるところがなかったが、改めて、十六歳のオリビアが演じる十四歳のジュリエットの豊満さとあどけなさに目を奪われ、その熱情にレオナルドの歌っていたWhat Is A Youthが沁みてきた。

 十二年前のメモには、'68年作品の本作を僕が観たのは、'74年のリバイバル時で、ちょうど映画の中のオリヴィア・ハッセーと同じ年頃のときで、その愛らしさのなかにある強烈な官能性に狼狽した覚えがある。原作のシェークスピアがどうのという前に、この作品は、ひたすら彼女の映画としてのみ僕の前に立ち現れたわけだけど、あれから36年経っても、やっぱりこの作品は、彼女の映画としてしか僕の前には映ってこないことに些か苦笑した。
 やっぱりあの下着姿のバルコニーの場面だよな~(笑)。36年前に、あの胸元にくらくらしたことを思い出し、神父の計らいで過ごした一夜の明けた朝のロミオを猛烈な羨ましさと共に観たことをまざまざと思い出した。でもって、服毒死したロミオを追って「このダガーの鞘は私の胸よ」と刺して崩れ折れ、横たわるロミオの頭と頭を交差する形で並べた二人の顔の配置の美しさに惚れ惚れ。角度といい、造作といい、申し分なし。根強い人気を誇るわけだ。
と記してあった。

 ロレンス神父の手紙を運ぶ“ロバ”を追い越した馬の乗り手は、バルタザールという名だったのかと思ったりもした。彼の知らせが二人の悲劇を決定づけるとともに、結果的に両家の和解に運命的な役割を果たしたことからすると、なかなか含蓄のある名だと思う。キリスト誕生を祝って訪れた東方の三賢人の一人の名を持つ人物がジュリエットの死を告げにロミオの元を訪れることによって、ロレンス神父の計略を台無しにしたわけだが、二十六年前にブレッソンの『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』とともに上映した覚えのある身としては、ロバの名前ではなく、その名の告げ人がロバを追い越すことで悲劇が起こるうえに、その道中には羊の群れが映し出されるあたりに作り手の寓意を思わずにいられなかった。バルタザールの名は、シェイクスピアの戯曲にもあったのだろうかと合評会で問い掛けたら、主宰の映画部長が役名どころか台詞もほぼ忠実にシェイクスピアに沿っていたと思うと教えてくれた。言われてみれば、それがゼフィレッリの作風だと仄聞した覚えがあるような気がした。

 そして、時節柄、最後にヴェローナ公の言っていた両家の不仲を知りながら、放置してきた我らの罪でもあるとの言葉が妙に響いてきた。シェイクスピアの時代以前から今に続いている人間の犯す社会的罪のなかでも、最も普遍的なもののような気がしている。改めて、ヴェネチア映画祭金獅子賞の『ロミオとジュリエット』(監督・脚本 レナート・カステラーニ)['54]を観てみたくなった。




『冬のライオン』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4597491187017095
by ヤマ

'22. 5.12. DVD観賞
'22. 5.15. DVD観賞



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