『ドライブ・マイ・カー』(Drive My Car)
監督 濱口竜介

 3時間を飽かせず見せる牽引力にも、さまざまに施された仕掛けの巧妙さにも感心し、語るネタには尽きない作品だなと思ったけれども、家福(西島秀俊)の言葉で言えば、僕には余り“入ってこない”物語だった。カンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いたというシナリオを家福流に、とことん素読を重ねなければ、ダメなのかもしれない。

 それでも、「自分は空っぽだ」と言う高槻耕史(岡田将生)に「全然空っぽじゃないじゃん」とか思いながら、家福との車中での対話のスリリングさやオーディション場面には痺れたが、家福が十九年前に四歳で亡くした娘と同い年のドライバーみさき(三浦透子)の北海道の雪に埋もれた生家を訪ねて漏らした、肝心とも言うべき悔恨と思慕の叫びがあまり響いて来なくて残念だった。

 ふと四半世紀前に蜂の旅人を観たときのことを思い出した。家福が抱えたようなツラさがどうにもピンと来ないということなのだろう。亡妻の音(霧島れいか)に彼が抱いたような葛藤を女性に対して持ったこともなく、どこか遠景の美麗な景色を眺望するような感覚が拭えなかったような気がする。娘を亡くした葬儀が平成十三年だったから、いつ時点の話かと思っていたら、十九年前ということが音の死後二年の時点で家福から告げられ、家福の楽屋に音が高槻を連れて来ていたオープニング場面というのが二十年連れ添った四十代後半の夫婦の姿だったことに恐れ入った。

 とても二十年もの夫婦生活を重ねてきているようには思えない生活感のなさだったような気がする。職業柄ということもあるのかもしれないが、そのこともあって帰宅後に確認したところ、音を演じた霧島れいかは、四十代後半どころかアラフィフだったので、さらに驚くとともに、そう言えば、ANTIPORNO アンチポルノ['16](監督 園子音)での筒井真理子は凄かったなと改めて感心した。

 ただ、ヴァーチャル・リアリティに興じているような高揚感とともに観ていたなかで、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャの台詞は、今の時代となれば、台詞で聴くよりも手話で演じるのを字幕で読むほうが、むしろ響いてくることは実感として知らされたような気がして、ちょっと新鮮だった。

 それにしても、芝居の台詞が“入ってしまっている”役者にとって、実際のところ、その台詞が実人生の端々に宛書のように蘇ってきたりするものなのだろうか。お芝居をやっている知り合いは少なからずいて、むかし訊いたこともあるような気がするが、あるともないとも言えるような応えが多く、実際のところ、よく判らない。だが、『ゴドーを待ちながら』や『ワーニャ伯父さん』の台詞に己が実人生が彩られると、なかなか難儀でかなわないだろうなと思わずにいられない。

 ところで、台詞で聴くたびに家福よりも禍福と聞こえて仕方のなかった家福に福音をもたらしたようには思えなかった音がセックスの後の昂ぶりのなかで紡いでいた物語の「サンガ」という高校生は、どのような文字なのだろう。ヤツメウナギの円口が映し出されたのを観て、よもや「TENGA」ではないだろうなどと連想させられたが、この少年の名は原作では、どう表記されていたのだろうと気になった。




推薦テクスト:「Silence + Light」より
https://silencelight.com/?p=1030
推薦テクスト:「Filmarks」より
https://filmarks.com/movies/93709/reviews/129253313
by ヤマ

'21. 8.27. TOHOシネマズ5



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