『楢山節考』['58]
『楢山節考』['83]
監督 木下惠介
監督 今村昌平

 木下・今村両巨匠による映画化作品を観比べようとの課題を受けて、一挙にDVD観賞をした。両作とも既見作品だったが、二十五年という歳月の隔たりによる違い、両巨匠の持つ作家性の差異による違い、いずれもが際立っていて併せ観ると触発されるものが三倍増しになるという好カップリングだった。タイミングよく一ケ月ほど前に銀座の女['55]を見せてもらっていたことも実に有効に作用したように思う。それぞれの持ち味が発揮され、甲乙つけ難い両作だったが、敢えて甲乙を以て臨むなら、木下版になるような気がしている。

 先に観た木下版['58]は、十二年ぶりの再見だ。内容的には、前回観たときと特に変わるものはないが、当時は心中天網島['69]を観ていなかったものだから気にも留めなかったけれども今回は、舞台幕を開く形で始まる演劇的で造形的な意匠の際立った開幕によるオープニングクレジットの撮影助手に成島東一郎の名を見留て、興味深く感じた。本作もまた三味線の響きや浄瑠璃、長唄が印象深い作品で、幕が切って落とされる場面転換によって物語が進行していく芝居仕立てが、題材の描き出す悲惨を巧みに昇華していたように思う。

 今回の再見で嬉しかったのは、前に観た退色の激しい16mmフィルムではなかったことから、赤黄青などの原色のみならず微妙な色合いも鮮やかに作り出していた凝った照明による色彩設計の見事さを堪能できたことだ。舞台劇では到底できないであろう山の壮観を現出させながら、芝居仕立てを些かも損なわずに設えていた美術の素晴らしさも、それによって大いに観映えがした。

 老人問題が社会問題化したのが、この時分だったのだろう。子供の頃から芸者になるべく売られ、老後は身寄りもなく施設に入っていく夜の女たちを描いていた『銀座の女』は本作の三年前で、本作の原作である深沢七郎の短編小説が発表されたのもその頃だ。そして、今に続く老人福祉法が制定されたのは、本作の五年後となる1963年だ。そういうなかでの“姥捨て”ゆえに、生々しさを排する芝居仕立ての意匠を施したような気がしなくもない。


 暫しの休憩を挟んで観た今村版['83]は、公開時に観て以来だから、四十年ぶりの再見となる。木下版からちょうど四半世紀を経たバブル期直前の時分の作品だ。身も蓋もない行き過ぎた本音主義が若者だけではなく、日本中を席巻し、建前が蔑ろにされ始めた時代に相応しく、生々しいリアリズムを志向していて、木下版のオールセットに対し、オールロケによる大自然のなかでの撮影を果たしていたように思う。いきなり空撮で捉えた雪山を映し出すオープニングに木下版とのスタンスの違いの宣言を観たような気がした。

 とりわけ、木下版では触れる程度にしか描かれていなかったように思う性の問題を大きくクローズアップすることで、老いの問題というよりも“人の営みや人間なるもの”を大自然のなかの営みの一つとして描き出すことに執心していたような気がする。種々の生き物のつがいによる交尾を丹念に撮影した映像が頻繁に挿入され、木下版には登場しなかった利助(左とん平)やおえい(倍賞美津子)、おかね(清川虹子)が重要な役回りを担っていたように思う。

 亡父の犯した殺人の因果によって死の病に見舞われたと思い込んでいる夫の遺言により、貧しくて妻帯できない村の奴に一夜限りの夜伽を施すことでお祓いに務めていたと思しきおえいからも飛ばされて落胆する次男の利助のためにと、おりん(坂本スミ子)から頼まれ、一肌脱いだおかねを熱演した古稀の清川虹子の使やぁ使えるもんだなぁの台詞と演技に当時、大したものだと感銘を受けたことを思い出した。

 どちらかというと人間そのものよりも、しきたりを含めた“人間社会の営みや貧困問題”に目を向けていたように感じる木下版に対して、しきたりや掟に従いつつ苦難を凌いで生きている“人間やその営みそのもの”に目を向けた今村版という印象が残った。今村版がベースにしていたのは、原作小説よりも、木下版の映画作品のほうだという気がしてならなかった。辰平(緒形拳)と玉やん(あき竹城)の夫婦生活を丹念に描いていたのも、それゆえのことのように感じる。木下版で出来なかったことの全部をやってやろうという今村版だったように思う。
by ヤマ

'22. 3.18. DVD観賞



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