『銀座の女』['55]
『夜の河』['56]
監督 吉村公三郎

 先に観た『銀座の女』は、タイトルからして艶っぽい話かと思いきや、いきなり養老院【老人ホーム(今でいう高齢者施設)】に入居する老婆の姿から始まり、その場面の延長上の光景がなぜか劇場に掛かっている映画になっていたりするという、かなり凝った意表を突かれる作品で、いささか驚いた。町の劇場の立て看板に「水爆特集」と書かれていたりする時代の作品だ。

 造形されていた銀座の女たちの人物像がまた、男たちに踏みにじられても、焼け出されても、悲嘆にくれ続けたりせず、さぁ稼ぐぞと、済んだことに囚われないタフで健気な女性たちばかりで、高橋二三との共同脚本ながら、いかにも新藤兼人好みといった映画だった気がする。

 パトロン政治家の高梨(清水将夫)から淡々と手を切られて、空港に迎えに行ったときに感じた日陰の身以上の悲哀を覚えたり、自分がパトロンになっていた東工大学生の矢ノ口英作(長谷部健)から無情の仕打ちを受けて憤慨したり、家を焼かれて損ない、呆然と拘置所内を歩き回ったりはしても、いつまでも引っ張られたりしない芸者置屋の女将いくよ(轟夕起子)のどっしり感が目を惹いた。なかなかの貫録だった。'55年作品だから、まだ四十路には入っていない轟夕起子に観惚れつつ、昭和も半ばの女性たちの逞しさと器の大きさに感心していた。

 いくよと操(日高澄子)の関係もなかなか好もしかったが、琴枝(乙羽信子)の浮世離れしたあっけらかんぶりにも恐れ入った。さと子(島田文子)のように子供の時分から芸者になるべく売られ、老後は身寄りもなく施設に入っていく夜の女たちを描くことで、時代と社会を写し取っているような作品だった気がする。

 十七歳で持たされた最初の旦那が六十二歳の浪曲師だったことから、浪曲とは真逆のジャズファンになったというミサ子(南寿美子)は、ルイ・アームストロングの写真を壁に貼っており、操の店で女給を務めるブンちゃん(北原三枝)がボードレールを口ずさみ、実存主義文学について語ったりしていた。月島の勝鬨橋が繰り返し映し出されていたが、この可動橋はいつからあったのだろう。

 むかしの映画を観ると、そこに映っているものに目を留めるだけでも大いに刺激的だ。映友からは「六十年前の東京は全く別世界で外国のように思えた」との声も挙がったように、建物は何処もかしこも木造だし、人の処世観もまるで違うし、署長(殿山泰司)の捜査方針がエラリー・クイーンだったりする警察は至って鷹揚だし、今と違わないのは貧富の差というか、階層社会だということだけだった。

 この後、昭和三十年代の高度成長期を経て“一億総中流”と言われた時期が僅かの間だけ現れたけれども、バブル期やらその崩壊やらによって総中流も崩れ去り、さらには“頑張った者が報われる社会”を名目に格差社会づくりが“やりたい放題自由主義”によって推し進められてしまった感がある。本作の三年後になる昭和三十三年に生まれた僕が観て来た日本というのは、そういう流れだったように思うから、生まれる少し前の可動橋を観ながら、なんとも感慨深かった。


 後から観た『夜の河』は、四日前に観た『銀座の女』とのカップリングで合評会の課題作になったことから、八年ぶりの再見をしたものだ。

 前回観た際映画の序盤と終盤がメーデーの話になっている構成に '50年代を感じさせる作品でもあったと記してある部分については、開幕早々に労基法を巡る遣り取りが指し示す“新時代”を浮かび上がらせるなんでも安いものが幅を利かす御時世になって店を畳むところが増えたというような舟木きわ(山本富士子)の台詞が仄めかす“新時代的合理性を拒んだ女の生き方”を描いた作品だったのだなというふうな感じ方をした。労基法を盾に、残業などしたくないと京染屋の弟子を辞めていった青年が、再び働かせてくれと舞い戻っていたことの示す“回帰”と、エンディングを新時代の象徴とも言うべきメーデーで締めていた“変革”の混交が込められていたのかもしれない。

 前回綺麗でめんどくさい昭和の女性の哀しみと記した部分は、変わらず強く感じたが、そのなかにあって主体的な自己決定力のなかに、ある種の潔さと艶っぽさを併存させていて唸らされたと綴っている舟木みわを演じた山本富士子に対しては、迫るも一方的、別れるも一方的な、商売同様の押しの強さというか情のこわさに、強情なものを感じて少々辟易としてくる部分もあった。前年作の『銀座の女』を観て、そういうめんどくささとは対極にある男たちに踏みにじられても、焼け出されても、悲嘆にくれ続けたりせず、さぁ稼ぐぞと、済んだことに囚われないタフで健気な女性像に大いに感心したからかもしれない。

 京女きわに振り回されたということでは、その浅ましい下心ゆえに宴席で醜態の限りを晒していた近江屋(小沢栄)にしても、つい洩らしたもう少しのことやにかこつけて己が罪悪感を転嫁したきわから男の人はこすいとなじられ、呆けていた竹村教授(上原謙)にしても、ある意味、似たようなものなのかもしれないと思った。

 夜汽車の窓に映る憂い顔も、洗い髪を上げ下げする風情も麗しかったが、艶っぽさと気っ風の点では、山本富士子よりも『銀座の女』で、いくよを演じた轟夕起子のほうに魅せられた。




『夜の河』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/14110501/
by ヤマ

'22. 2.22,26. スカパー衛星劇場録画



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