『楢山節考』['58]
監督 木下恵介

 僕が生まれた年の映画で、同年のキネ旬第1位に選出された作品だ。リメイクされた今村昌平監督作品はカンヌでパルムドールを受賞した覚えがあるが、本作とは制作スタイルが対照的だ。今村版は、人間というよりも生き物の生態を捉えるような観察的スタンスが印象的だったが、木下版は、舞台幕を開く形で始まる演劇的で造形的な意匠の際立った作品だったように思う。

 いわゆる日本的な同調圧力の文化というものがよく捉えられている作品で、七十歳間近になって28本の歯が揃って残り、健康であることに“恥”を感じているおりん婆さん(田中絹代)の姿が痛ましい。役立たずになったからのお払い箱ではなく、絶対数として賄えない食い扶持を背景にした人口調節としての掟なのだから、個別事情などいっさい顧みられないところは、現代日本の法律に定める選挙権の付与や飲酒は二十歳からといった決まり事と同様に“制度たるものの宿命”なのだが、事が人間の命に関わることだけに、痛烈だ。

 姥捨てに当たっては、ものものしく作法を決めているばかりか、その口伝に際しても儀式化し、制度としての権威付けを行っているから、それこそが共同体としての常識であり、ルールとなっているのであり、おりんの息子である辰平(高橋貞二)のように姥捨てをしたくない己が心情に囚われることのほうがルール違反なのだが、だからこそ、姥捨て年齢になっても往生際の悪い又やん(宮口精二)が、倅(伊藤雄之助)からのみならず、おりん婆さんからさえも嘆かれるところが重要なポイントだと思った。又やんは、遂には息子の手によって崖から落とされて殺されてしまうわけだが、おりんを姥捨てに来た帰りの辰平にその現場を目撃され、食って掛かられた弾みで、又やんの倅もまた同じ崖から堕ちてしまう。確かに倅らしからぬ彼の酷薄さが辰平の息子(弟?)けさ吉(市川団子)同様で辰平の気には触るにしても、かの地の風習からすれば、必ずしも咎められる筋合いのものではないと思えるところが凄惨だ。だが、作り手の立ち位置が明らかに辰平のほうにあるのは、配役を見ても二人の人物造形を見ても、歴然としており、本作の製作年次を思えば、この姥捨てというものに、戦時中の出征を想起させるところが色濃く窺えるように思った。

 非人道的な行為を制度化して儀式を加えて権威付けするのは、それによって同調圧力を醸成させて制度を維持する必要のある“社会”というものが常に行っていることで、世界的にも廃止している国のほうが多い死刑制度を我が国が存続させ得ているのは、論理的思考よりも情緒的先導に弱く、容易に同調圧力の発揮に傾きやすい集団主義的な日本文化に起因するところが大きいと常々思っているが、そのような同調圧力が強力に働く状況下にあっては、辰平の心情が汲み取られるようなことは起こり得ず、せいぜいで、思惑通り雪が降り始めた幸運を喜び合うために作法を破って母親の元に駆け戻って手を取り合うことぐらいのことでしかない。

 同調圧力の発揮に傾きやすい集団主義という点では、本作で描かれた盗みを働いた者への制裁の私刑色の強さも印象深く、かような精神風土なればこそ、いよいよもって貧困こそが大悪だと思わずにいられなかった。それにしても、姥捨てであれ、大食らいの娘を他家に押し付けることであれ、とにかく如何にしてクチ減らしを行なうかが一家の重大課題となる暮らしというのは、なんとも心持ちが悪くて、精神衛生にはよろしくない。叶わぬまでも社会からの撲滅をまず目指すべきは、犯罪よりも貧困であると改めて思った。“頑張った者が報われる”などという欺瞞に満ちた詭弁に騙されてはならない。頑張った者にこそ、より多くの貢献をしてもらい、そのことを以て称賛を与えるような社会にしたいものだ。実利と称賛の両方を手にする者を勝者として賞賛するような社会は、何とも酷薄で下品な気がしてならない。

 相変わらずフィルムの脱色が著しいのが難の上映会だったが、今なお「おばすて」の地名を残す長野県千曲市の昭和33年当時の駅舎を映し出していたラストショットが目を惹いた。

by ヤマ

'10. 9.26. 龍馬の生まれたまち記念館



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