美術館 春の定期上映会
“過激な巨匠 ルイス・ブニュエル監督特集”

Aプログラム
『忘れられた人々』(Los Olvidados)['50]
『エル』(El)['53]
Cプログラム
『アンダルシアの犬』(Un Chien Andalou)['28]
『砂漠のシモン』(Simon Del Desierto)['65]
『銀河』(La Voie Lactee)['69]

 本年1月に角川シネマ有楽町でのルイス・ブニュエル監督特集上映 男と女によって『昼顔』『哀しみのトリスターナ』『小間使いの日記』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』『自由の幻想』『欲望のあいまいな対象』がデジタルリマスター版で上映されたとき、その垂涎のラインナップに、このうちの何作が高知でも上映されるだろうと思っていたら、県立美術館が遂にブニュエル特集をするらしいと聞き、楽しみにしていたものだ。

 かつて自主上映活動に携わっていた僕にとって、そのきっかけになったのが皆殺しの天使['62]であり、参画した高知映画鑑賞会の運営委員の面々が、やたらゴダール、トリュフォー、ロメールあるいはフェリーニを持て囃していたことにさっぱり心惹かれず、ブニュエルやアンゲロプロスとは比べ物にならないと思っていた覚えがある。だから、県立美術館の映画上映企画に対して早々からブニュエル特集をとリクエストしていたのだが、さっぱり取り入れられないまま、もう随分前から求めることも止めていたから、特集上映の朗報に喜び勇んだのも束の間、最も再見したいと願ってきた自由の幻想も未だ宿題映画になったままの遺作『欲望のあいまいな対象』もラインナップから漏れていて、がっかりしてしまった。急速に熱が冷め、歳もいって集中力が落ちてきていることだし、1日1プログラムでいいやという気になって、初日はAプログラムだけ観てきた。

 '82年4月に『メキシコ万歳』['79]とともに観て以来、ちょうど四十年ぶりに再見した『忘れられた人々』は、その邦題が画面には現れず「十代暴力の残虐物語」と映し出された。誰ひとり大人は死ぬことなく、十代の少年ばかり順に三人も殺されてしまう物語を観ながら、感化院を脱走してきたジャイボ(ロベルト・コボ)に苛立ち、哀れなペドロ(アルフォンソ・メヒア)の母親(エステラ・インダ)に憤慨した。ジュリアン(ハビエル・アメスクア)を撲殺し、盲人(ミゲル・インクラン)の大道芸道具を叩き壊したり、下半身のない身体障碍者を襲って取り上げた座車を遠くに蹴り飛ばしたりするジャイボが街に戻って来なければ、というのが当然ではあるが、もし感化院長から50ペソの試練を課せられなければ、ペドロが殺されることもなかったことを思うと、少年の健気が哀しく映ってくる。いかにもブニュエル作品らしく、夢幻場面が現れたり、少女メチェ(アルマ・デリア・フエンテス)の腿にミルクを垂らす場面があったりしつつ、'50年当時の都市化するメキシコシティの暗部が描き出されていた。

 続いて観た『エル』のほうは、初見となる作品だ。メチェの腿に替わり、グロリア(デリア・ガルセス)の脚に魅入られた富裕紳士フランシスコ・ガルバン(アルトゥーロ・デ・コルドヴァ)の狂気の顛末が描かれていた。新妻グロリアに向って利己主義は高貴な魂の本質だと嘯くモラハラ夫ぶりがジャイボ以上に苛立ちを誘ってくるような作品で、なかなかの熱演だった。四年前に観たバーホーベン監督の同名作『エル ELLE』['16]も尋常ならざる壊れた人物が強烈な作品だったことを思い出した。

 また、グロリアを演じていたデリア・ガルセスが、昼顔哀しみのトリスターナに出ていたカトリーヌ・ドヌーヴを思わせる顔立ちを見せていて、これがブニュエル好みだったのかと思ったりした。


 翌日観たCプログラムの最初の作品『アンダルシアの犬』['28]は、'83年に『黄金時代』『糧なき土地』、'84年に『銀河』とともに観、'09年に“21のフィルム・マニフェスト 実験映画史講座”のなかで観て以来の四回目だ。エロスとタナトス、不条理に強い関心を持つ作家の原点があると改めて思った。

 続いて観た『砂漠のシモン』は、初見。悪魔の誘惑を三回退けるキリストの話なら聞き覚えがあるし、画面に現れた“受難の柱”のイメージには見覚えがあるように感じたので、遠い日にテレビ視聴か何かをしているのかもしれない。いずれにせよ、なかなか面白く観た。修行として砂漠に建てた柱の上で6年6週6日間過ごしたシモン(クラウディオ・ブルック)に訪れる最初の誘惑は、奇跡を為し得る力で空腹を癒す誘惑だったことに対してキリストが「人はパンのみにて生きるにあらず」と退けるものだったように思うが、ブニュエルらしく食が性に置き換わり、少女らしからぬ豊かさを湛えた胸を開けた少女がスカートを捲り上げると、娼婦のごときガーターベルト&ストッキングで装われた脚が露わになっていた。シモンが退けると悪魔が全裸の老婆になって逃げることで敗れ去ったことを示していた。

 シモンへの第二の誘惑が8年8週8日間過ごした後だったか前だったのかが少々心許ないが、キリストには全世界を支配できるようになる誘惑だったことに対して、シモンには信仰者にとって全世界とも言うべきキリストから苦行を止めてよいと柱から降りることが唆されていた。磔刑の跡がくっきりと残っている足によって誘惑者がキリストであることを明示していたように思う。

 第三の誘惑は、キリストに父なる神の力を試してみないかと誘ったことに対して、高所から飛び降りる話は第二で使っていたためか、逆に高所に飛翔する誘惑をジェット旅客機によって映し出すという意表の突き方をしていた。いかにもブニュエルらしいと快哉を挙げた。

 イングリッド・バーグマンに少し似た面立ちの悪魔の化身とシモンの赴いた先は '60年代のゴーゴーダンスホールで、エレキ音楽のなかで若者たちが踊り耽っていた。ある種、宗教的トランスを暗示しているかのような風情があったが、ダイナミックに揺れ動く女性の肢体を“肉体核弾頭”と言っていたのが可笑しかった。シモンは、テーブルでドリンクを口にしつつ、家に帰りたいと零していたが、悪魔からそれはもうできないと言われていた。核兵器であれ、エレキ音楽であれ、時代に後戻りはできないということなのだろう。

 また、本作のなかに地面から這い出てくる蟻の群れのショットが現われ、『アンダルシアの犬』での掌のなかから蟻の群れが這い出てくるショットとの呼応を感じて妙味があった。四十年近い製作時期の隔たりのなかで同じようなイメージが映し出された意は何処にあるのかを思ったとき、蟻の群れが人の営みで、掌が神の手なのかもしれないような気がした。見えざる手を見せてみたというわけだ。

 次に観た『銀河』は、'84年7月に千石三百人劇場で『アンダルシアの犬』とともに観て以来の三十八年ぶりの再見だ。聖ヤコブが祀られている巡礼地サンチャゴ・デ・コンポステラを目指す巡礼者ピエール・デュポン(ポール・フランケール)とジャン・デュバル(ローラン・テルジェフ)の巡り会うキリスト教にまつわる様々な言葉と行いを描いていたが、巡礼の旅の最初と最後で強調される汝は我が民にあらずもはや慈悲なしという言葉と、道中に出てくるラ・マルチーヌ学園のステージ発表で少女たちが次々に繰り出す排除と呪いの宣告が特に印象深かった。最後にクレジットされた劇中で使われた言葉は、すべて古文書などに記されているものですという意の注記が強烈だった。

 もちろん言葉というものは、その言葉自体の表出による部分以上に使い方によって意味がいくらでも変わるものだから、殊にブニュエルのような作り手が意図的に意匠を凝らしてくれば、本来の意味とは全く正反対のニュアンスで使われている場合も多々あるだろうと思いつつ、それにしても、キリスト教にまつわる言葉の過激さとか挑発性について、思いを新たにした面があった。それだけ最後のクレジットが利いているということだ。

 そう言えば、本作の六年後に撮られた、僕が最も再見したいと願ってきた『自由の幻想』のタイトルを思わせる自由は幻想という言葉が本作にあって驚いた。僕が三十八年前に本作を観たとき、まだ『自由の幻想』は観ていなかったから、記憶に残っていなかったのだろう。

 本作の原題は、フランス語のようだが、スペイン語のコンポステラには「星の原」という字幕が付いていて、ここから来たタイトルだったのだなと得心した。星というのが、クレジットに記された“劇中で使われた言葉”であるのは、言うまでもないことだ。

 また、Cプログラムでは、最初に製作年次が四十年離れた『アンダルシアの犬』が配されていたことで、改めてブニュエルが“イメージの作家”であることが印象づけられたように思う。単に『砂漠のシモン』が短かったから添えられただけだったのかもしれないが、結果的に奏功していたような気がする。


公式サイト高知県立美術館


by ヤマ

'22. 5.21,22. 美術館ホール



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