『皆殺しの天使』(El Angel Exterminador)
監督 ルイス・ブニュエル


 馬鹿馬鹿しいといえば、実に馬鹿馬鹿しいお話である。しかし、これをその一言ですませるだろうか。

 ある夏の夜、豪華な邸宅に20人の紳士淑女が集まって夜会を始めた。午前三時、流れからして丁度散会に相応しいタイミングを逸してしまったことをきっかけに彼ら20人は、邸宅から出られなくなる。丁度良いきっかけを逃してしまったために、ずるずると不本意ながら流されてしまうというのは、よくあることだが、彼らの場合、そんな生易しいものではない。まるで閉じ込められたかのように、日を追ってひどくなる飢えと渇きと疲労とでパニック状態になるのである。彼らは皆、外に出たい、出たいと言いながら、誰一人出ようとはしない。出たいと思うことと出ようとすることとは違うのである。出ようとすること以外のありとあらゆることは、試みられる。その中でパニック映画さながらに、紳士淑女の化けの皮の剥がれる者達、理性を失う者達、そして、彼らに理性を訴え、何とか秩序を保とうとする者達が現われて来る。パニック映画では、後者がヒーローとして描かれるのだが、本作品では、そのパニックの前提となっていることに対し、観客の方に何もそんなになる前にさっさと帰ればいいのに、何だこれという馬鹿馬鹿しさがあるために、ヒーローとなるべき者も含めて、皆の有様が何処か滑稽になってしまう。

 しかし、ここで思うのが、その「さっさと帰ればいいのに・・・」である。世の中の閉塞状況って皆これと同じではないのか。人生の苦しみの大半は、これと同じではないのか。今の世の中を変えたい、今の自分を変えたい、このままでは嫌だと思いながら、一向に変えようとしていない。第三者から見れば、何故こうしようとしないのだろうと思われる状態のまま、一番簡単で効果的なことを見失って苦しんでいる。そんなことが実に多いような気がする。してみれば、ブニュエルのつくったこの馬鹿馬鹿しいお話は、実は、人間にとってブラックな笑いを込めた寓話ではないのか。彼の作品には、よくこういうブラック・ユーモアが見られるように思う。

 ところで、このパニックは、その限界に到る所で『いけにえ』の思想が出て来たりするところに、なかなか含蓄があるのだが、それ以上に感心させられるのが、パニックから脱出への転換のスマートさである。現実では、一度逃したタイミングを取り返すことは、至難の業なのだが、偶然、全員が最初の夜の、今はもう逸してしまった散会のタイミングの時と同じ位置にいることにレチチアが気づくことによって、脱出に成功する。失われたタイミングを取り返すのである。キー・ワードは、『帰ろう』であって、『出る』ではない。

 ともかくも、一番簡単で大事なこと(この場合『帰る』)を忘れてしまったことによる悲劇というものは、人間に付き物で、その最たるものは、戦争とか内乱とかいったものではなかろうか。生きることが最も単純に大事な人間同士が殺し合う。しかも、それは、丁度この物語で、苦労の末やっと脱出した彼らが、その喜びと感謝を祈った教会で、再び同じことを繰り返そうとするが如く、人間が一向に懲りずに繰り返している悲劇なのである。
by ヤマ

'85.10. 3. 名画座



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