美術館夏の定期上映会 “フランス映画の秘宝”
《一日目》
①『最後の切り札』(Dernier Atout)['42] 監督 ジャック・ベッケル
②『罪の天使たち』
  (Lea Anges Du Peche)['43]
監督 ロベール・ブレッソン
③『あなたの目になりたい』
  (Donne-moi Tes Yeux)['43]
監督 サッシャ・ギトリ
《二日目》
①『天使の入江』
  (La Baie Des Anges)['62]
監督 ジャック・ドゥミ
②『昼顔』(Belle De Jour)['66] 監督 ルイス・ブニュエル
③『冒険者たち』(Les Aventuriers)['67] 監督 ロベール・アンリコ
④『三重スパイ』(Triple Agent)['03] 監督 エリック・ロメール
ヤマのMixi日記《一日目》2008年11月08日20:43

 日仏交流150周年記念と銘打たれた二日に渡る企画上映の初日を昼から観に行く。'42,'43,'43の三作品だから、戦時中の映画ということになる。確かに『あなたの目になりたい』では、灯火管制が敷かれていればこその夜道の懐中電灯携帯だったんだろうし、占領下という言葉も出てきていたように思う。しかしながら、戦禍の影をほとんど感じさせない三作品だった。昔のフランス映画って本当に台詞とか人物関係がいいよな~と改めて思った。
 個別には、ブレッソンの『罪の天使たち』の格調に感心し、ベッケルの『最後の切り札』のライバル間の信頼を羨み、ギトリの『あなたの目になりたい』の粋と機知の情話の品のよさに打たれた。
 明日はドゥミの『天使の入り江』、ブニュエルの『昼顔』、アンリコの『冒険者たち』、ロメールの『三重スパイ』だ。今日は、朝の『望郷』をパスしたが、明日は四本とも観たいと思っている。一番の楽しみは、二十歳前後に観たきりの『昼顔』が、今の僕の目には、どのように映ってくるかってことだなぁ。

ヤマのMixi日記《二日目》2008年11月09日21:33

 いずれの作品も面白く観たものの、今現在の地平に置くと流石に鮮度が落ちてくる部分が否めない気がした。昨日と違って今日は全て第二次大戦後の作品ばかり。前三作が'60年代、ロメール作品は'03年のものながら、舞台は'36~'43年だった。
 『天使の入江』は初見だが、若かりし頃、賭け事が大好きだったから、ジャッキー(ジャンヌ・モロー)の言う「お金が目的ではない」賭けの牽引力が分かるところがあるだけに興味深く観た。お堅い銀行員から、あれだけ派手なバクチ三昧と年上の女に嵌った青年が、あの後どうなっていくかのほうが実は面白かったりするのだが、そこは作り手の狙いと違うから仕方ない(笑)。
 『昼顔』を観るのは二十歳前後の学生時分以来だから、三十年ぶりの再見となる。今回は、23歳のセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)のことよりも、もう記憶から飛んでいた「聖体拝受を拒んだ記憶」と「少女期に作業着の男から性的悪戯を受けた記憶」の場面のほうが強く印象に残った。それとともに、アナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)の娼家の様子がひどく現実感を欠いている感じから、当時は23歳のセブリーヌの現実の部分と受け止めていたけれども、もしかしたら、ここのところも彼女の妄想世界として描いていたのかもしれないという思いが湧いてきた。そうなると、けっこう物語自体が違った見え方をしてくるところが面白かった。
 『冒険者たち』は、高校時分に観て以来だと思う。当時、レティシア(ジョアンナ・シムカス)を挟んだローラン(リノ・ヴァンチュラ)とマヌー(アラン・ドロン)の関係に少し憧れるような気持ちで観た覚えがある。今回再見して最も印象深かったのは、'60年代ならではの逸脱エネルギーの宿りが作品に備わっていることだった。あの口笛のもたらすオプティミスティックな感じといい・・・。
 『三重スパイ』は、フランスでは有名な事件なのかもしれないが、作り手は、そのことよりも夫が訳アリ職に就いている者の夫婦関係を専ら描きたかったようだ。スパイである夫の愛妻家ぶりがなかなかよく、画業を愛好する妻の艶っぽくもイノセントな魅力がなかなか妖しくて気に入った。やっぱロメール趣味と言うわけだ(笑)。昔、少女ばっか撮ってたロメールが年増女性をと思ったが、考えてみれば、彼の何歳年下ということで言えば、スタンスに些かの揺るぎもないのであった(笑)。あの女優さん、誰なんだろー。


*「チネチッタ高知」:お茶屋さんとの『昼顔』についての往復書簡編集採録
2008年11月9日 22:17
(お茶屋さん)
 帰りの道々考えたんだけど、娼館諸々妄想説、いいですねぇ。

(ヤマ)
 お、ありがとね。

(お茶屋さん)
 セブリーヌだったっけ?

(ヤマ)
 うん。

(お茶屋さん)
 彼女は、性的な劣等感か罪悪感か嫌悪感か、はたまた欲求不満か(欲求不満と言うより幼いときにあんな目にあって劣等感とか罪悪感のほうが大きいんじゃないかと思いますが)、いずれにせよ夫との性生活において言いたいことがあったわけで、「夫婦の間でも言えないことがあるんだな~」と思ったのは、このことなんですよ。

(ヤマ)
 劣等感ってのは、同感。罪悪感、嫌悪感も。でもって自罰傾向もね。欲求不満っていうのは、ビミョーだなー。不全感があるという点では、欲求不満だけど、性的欲求不満ではない感じだよね。
 このあたりが三十年前に観たときの受け止め方と大きく違ってる部分だな、ボク。性的欲求不満なら、性感自体には既に目覚めてないといけないけど、彼女は、そこまで行ってないわけでしょ。

(お茶屋さん)
 そうそう。欲求不満と思っていたのは、子どもの頃、いたずら(性的虐待)されたシーンを観るまでですね。だから、娼館へ行くのは、『ディア・ハンター』でニック(クリストファー・ウォーケン)が、自由になってからもロシアンルーレットをしていたのと同じで、心の傷をなぞっているのかな~と思っていましたね。娼館妄想説を聴くまでは。

(ヤマ)
 なるほどね。でも、妄想説に立っても、その解釈はアリなんじゃないの?
 玉手箱(何が入ってたんやろね(笑)。)と鈴でぐったりするほどの快感に浸る願望とは矛盾するかもしれないけれど、矛盾した願望を持つのは人間の常だし。
 で、お茶屋さんのいう“性的な劣等感か罪悪感か嫌悪感”の原因みたいなとこに言及すると、彼女の記憶に鮮烈な少女期に受けた心的外傷というのがあって、そのせいで不感症妻というツラい状態に自分が追いやられることになっているのは、少女期より更に幼い時分に、聖体拝受を拒んだ罰なのかもと思ってるフシがあるということだよね。
 でもって、夫から不感症と指摘されることへのナーバスさと、夫の側にも問題があると言い返したい思いのあるらしい“未開発”の件については、劣等感であると同時に、憧憬があるからでもあって、だから、かの玉手箱や鈴を使われて、ぐったりなるほど感じさせてくれる東洋人のエピソードが出て来るんだろうけど、そう観ると、あそこんとこも、やっぱセブリーヌの妄想と観るほうがいい感じでしょ。
 でもって、体が開発されることで“明るくなった[夫からの評としての台詞]”と言われる状態に対する願望があった気がするんだよね。となると、マルセル(ピエール・クレマンティ)ってのは、夫ピエール(ジャン・ソレル)と対象的なキャラクターの若い男として彼女の妄想の中に登場してきたことになるよね。
 女性は、特に若いと、相反する男性像を願望として併せ持つとしたものだから、そういう意味でも、妄想説に立つほうが現実感が強くなってくるよね~。

(お茶屋さん)
 夫が失明したとき、アンリ(ミッシェル・ピコリ)が昼顔のことをバラすと言ったでしょう? この場面が妄想だと、私にとっても都合がいいです(笑)。セブリーヌが言いたかったことをアンリが言うわけですから。「私だってセックスできるのよ」ってことを。

(ヤマ)
 娼家の経験で自信を得たということなのか、自分から夫のベッドのほうに入っていく場面もあったよね。そういうふうになりたいって願望と、それがまだ妄想に留まっているからこそ並行して、夫が強引には求めてこない過度の物分りのよさを求めている部分も現れたりするわけだよね。また、車椅子状態になって恐らくはセックスが出来なくなった夫の世話をする姿がどこか活き活きとしているように映ったのは、妻として性の強迫から解放されたからのようにも見え、そういう願望もあったのではないかという気がするんだよね。

(お茶屋さん)
 妄想シーンって願望でしょうね。

(ヤマ)
 そうしたもんだよね。
 で、僕が併記した彼女の願望も、ある意味、矛盾してるわけだし、妄想と受け止めるほうが自然だよね。

(お茶屋さん)
 で、願望と言っても、鞭打たれたいっていうんじゃなくて、夫のためにもセックスできるようになりたいっていう願望でしょうね。

(ヤマ)
 あの鞭打ちの妄想は、性的被虐願望っていうよりは、潜在的な自責心であったり、夫から不感症を責められていると受け取っている心理の表れという感じだったよね。娼家での多才な性のバリエーションにおいても、彼女自身が性的被虐によって恍惚を得ている姿は窺えなかったし。

(お茶屋さん)
 諸々妄想説を採ったとしても、私はセブリーヌは夫を愛していたと思いますよ。ヤマちゃんは、“夫殺し”とかも言ってたけど、それについては、夫殺したい願望より、主導権を取ってみたい願望じゃないかな。

(ヤマ)
 この“殺意”の件はね、哀しみのトリスターナ['70]への連想のなかで湧いてたものだったけど、僕も帰りの道々考えてて、存在自体に対する殺意ではなく、男性機能に対する殺意ってことに、ちょっと考え方を変えたんだよね。実際、あの物語のなかで夫は死ななかったのだし、セブリーヌの願望も夫殺しではなかったと思うようになったよ。
 つまり、先の不感症ではない“感じる女”願望というのも、自身の性的欲求というより妻としての劣等感の側面のほうが強かったのではないかという気がするわけ。

(お茶屋さん)
 男性機能に対する殺意ってことになると(言われてみると、それもアリっていう気はします)、よけい可哀相ですねぇ。

(ヤマ)
 ブニュエルって、けっこう残酷というか冷徹だからね(笑)。
 ところで、『哀しみのトリスターナ』は、観てる?

(お茶屋さん)
 観ていません。

(ヤマ)
 あれもカトリーヌ・ドヌーヴなんよ。『昼顔』の主題を引き継いだような作品って感じがする。その観点からは、対照的とも言える夫像を敢えて持ってきている感じになってて、しかも、その夫が優しいほうに変貌しちゃうんだけど、妻は、それに苛立つんだけどね(笑)。
 『昼顔』を観た後で鑑賞すると、いっそう興味深く、面白いと思うよ。
編集採録 by ヤマ

'08.11. 8~ 9. 県立美術館ホール



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