『哀しみのトリスターナ』(Tristana)
監督 ルイス・ブニュエル


 養父であり夫であったドン・ロペの発作をみて、医者を呼ぼうと電話を取ったトリスターナに、にわかに忍び寄ってきた殺意は、何を意味しているのだろうか。

 ドン・ロペは、プライドの高い自信家で、金銭や教会も軽視していた。貧しき盗人を官憲の追跡から庇い、弱いのは彼のほうだからと言い、愛と性は何よりも人間的なものであるゆえ、そこにはタブーはないと考え、制度に囲われた家族主義を卑小なものと感じる。生活のための労働は不名誉なことで、だから私は働かないのだと言うロペは、ある意味では徹底した自由主義者であり、また傲慢で自己中心的な男でもある。彼の庇護の下にしか生きられなかった時代に、娘であることに加えて妻となることを求められ、拒めなかったトリスターナは、それゆえ彼を嫌悪し、若い画家ホラシオとの恋に賭けるのだが、そんなロペから受けた教育は着実に彼女を支配していたようだ。ロペのもとに引き取られて間もない頃から彼に向かって、私は何に対しても好きなものを決めると言い、自分の選択にこだわるようなトリスターナなればこそ、ロペの慣習的でない自律的な価値観には影響されるところが大きかったはずである。その辺りが、トリスターナに、夫として愛せないが、父としては尊敬できると言わせるところなのだろう。

 トリスターナは、ホラシオと駆け落ちをしたが、何年か経って脚を重く病み、死ぬなら父のいる家でとトレドの町に帰ってくる。思うに、ホラシオからは男女の性愛以外の、彼女がロペから受けたような影響は得られなかったのではなかろうか。でも、ホラシオがどんなことがあっても私をロペのもとには戻さないような人だったら…。このような気持がその時のトリスターナにあったとは考えにくい。しかし、結果的には、それと同じことが起こってしまう。「ロペなら絶対に私を手放さなかったわ。」ホラシオの優しさは、見事に墓穴を掘ってしまう。男の誰もが覚えのある、女から受ける不意打ちの記憶の一つである。しかし、彼女にとっても思いがけない哀しい真実なのである。トリスターナは、片脚とともにホラシオを失ったのである。

 こうして、再びロペと共に暮すようになったトリスターナであるが、この二重の喪失感は、自分はロペの呪縛から逃れられないという思いとともに、彼女の心を冷たく閉ざしてしまう。しかも、離れていたこの数年のうちに、ロペも嘗てのロペではなくなっていた。自信も傲慢さも失い、彼女に献身的に振る舞う。卑小な家族主義を嘲笑し、教会に行くこともなかった彼が、トリスターナとの結婚を望み、教会で婚礼の誓いを立てるのである。しかし、今のロペがどうであれ、自分がロペに呪縛されていることは、誰よりも彼女自身が知っている。今更どうなるものでもない。彼から受けた影響は、彼女のなかに血肉化しているのだから。それゆえに、彼の変貌ぶりは、裏切り以外の何者でもなく、同時に極めて醜悪な姿なのである。「日に日に醜くなる。」とサトゥルナに告げるトリスターナ。「以前の悪い彼に柔順だった貴方が、なぜ今の彼との結婚を拒むのですか。」などという司祭の言葉は、なかなか強烈である。このあまりのおめでたさゆえに彼女は、復讐としての結婚を決意したのではなかろうか。それは、結婚そのものを否定する彼女にとっては、同時に自己否定であり、呪縛への絶望感の深さを表わしているとも言える。公園で車椅子に乗ってすれ違った赤ん坊を観るトリスターナの視線には、ハッとさせられる。ベランダから見せた全裸の姿には、これが私なのよ、今更どうにもならない、というのに加えて、できるのなら昔の私に返してという叫びがあったのではなかろうか。

 こうして、呪縛への反発と幻滅への苛立ちが、次第に触れさせようともしないほどにロペを否定し、ますます冷たく残酷に、しかもそれゆえ美しくトリスターナを変えていくのである。いよいよもって、女性は魔性というしかない


 (自分の選択にこだわる自律的な女性でありながら、その選択の結果や責任を自分の内に背負おうという意志は、ついぞ見られなかった。ホラシオとのことで、聞かれもしないのにサトゥルナにあれこれ言い訳がましく言ってたなかの「仕方がなかったのよ」という言葉が印象深い。これを女性についての洞察の深さなどというと叱られるのだろうけど、それゆえに女性は魅力的なのだ。ありゃ、もっと叱られそうだな。)
by ヤマ

'87. 2.20. 名画座



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