『流浪の月』
監督・脚本 李相日

 開幕早々に家内更紗を演じる広瀬すずが艶技を見せる場面が現われ、あの娘もそういう年頃になったのかと感慨を覚えていたら、そんなとこだけ観て何を判った気になっているんだと言わんばかりの、強烈なしっぺ返しを食らう物語展開に恐れ入った。開幕は、そういう仕掛けだったのかと、してやられた気がした。原作小説は未読だけれども、広瀬すずのキャラクターイメージを上手く使った巧みな構成だと思う。開幕早々から、やばいぞやばいぞと心中穏やかならぬまま、ずっと観入ってしまった。そして、その“やばいぞ”のニュアンスがどんどん変転していくところがまた、凄いと思った。

 本当に人というものは、ろくに表層しか見ないままの勝手な思い込みで、いい気になってろくでもないことをしでかし、人を傷めつけたがる厄介なものだとつくづく思い知らされるような作品だった気がする。他者に理解されにくい事情を抱えた人が歩まざるを得ない苦難の過酷さに、“流浪の月”では済ませられないことだと嘆息が漏れた。ロリコンだのメンヘラだのといったラベリングをして分かっているような気になっているが、ロリータ・コンプレックスにしても、メンタルヘルスに難儀することにしても、カタカナ四文字で片付けられるようなことではない。

 本作に描かれた佐伯文(松坂桃李)を観ていると、最初にうちへ来るかいと幼い更紗(白鳥玉季)に声を掛けた動機が、おそらく彼自身が常日頃から痛切に感じていたであろう“居場所のなさ”に響いてくる気を感じ取ったことからだったことがよく分かってくる運びになっていたように思う。そして、十歳の彼女と過ごすうちに、中二の従兄から受けた性暴力にもかかわらず、天真爛漫とも言える太陽のような明るさを失っていないことに心底驚くとともに、とても自分には真似のできない眩しい靭さに、強く憧れ惹かれていったような気がする。呼び名も対等にすることを求めていた文は、幼さを愛でるどころか、むしろ明るさを失っている自身の標として勇気づけられるようなところさえあったのではなかろうか。

 そのような更紗が文に洗脳などされるわけがないのであって、世間は“女児誘拐事件”として処理したけれども、言わば、更紗のほうに振り回され、引き摺られる形で日々を過ごしていたことが、回想的に綴られていた。だからこそ更紗は、わたし、可哀想な人じゃないよと繰り返し言うのだし、文に対して、贖罪しなくてはという想いを抱き続けていたのだろう。彼女が異様に辛抱強いことにも、恐らくはそれが作用しているのであって、洗脳だとかメンヘラなどというものでは金輪際ないことを、広瀬すずが非常にセンシティヴに演じていて、感銘を受けた。

 幼い時分に受けたトラウマによって性行為が愉しめなくなっていても同棲する亮(横浜流星)から求められれば受け入れていたのは、仕方なくというよりも彼女自身の選択であったことが、逆上すると暴力を振るってしまう相手であることが判っていても断ると決めたら毅然と拒んでいた姿に、よく現れていたように思う。十五年前に文が更紗の“居場所のなさ”を感知したように、更紗は亮の“根源的なところでの不安と怯え”を感知していたような気がしてならない。これまたDVカップルに対してよく貼られがちな“共依存”などというラベリングなどとは、全くの別物であることをよく描き出していた気がする。

 それにしても、若者たちの皆々が抱えていた途轍もなく大きな欠落感には、いささか参った。揃いも揃って親からの愛情を得られなかった過去を抱えていて、今また、更紗の元同僚ウエイトレス安西佳菜子(趣里)の娘梨花(増田光桜)が同じような憂き目に遭っていた。佳菜子が上場企業の正社員で田舎は土地持ちの農家と羨んでいた境遇の亮も育ての親たる祖父母に強い想いを抱きつつ、両親から捨てられた心の傷によって他者との愛情関係が上手く結べなくなっていたし、十代時分に性犯罪容疑の女児誘拐事件として処理された事案によって少年院送致を受けた文も、母親(内田也哉子)からハズレ扱いされる出来損ないだと自分を思わずにいられないままに育っていた。文の抱えていた欠落感は、ただでさえ性的な事柄に多感で、不安に囚われやすい年頃にさぞかし過酷だったろうと思わずにいられない。

 登場人物の誰も彼もが人には言えない事情を抱えていて、少々遣りきれない気持ちになった。明かされなければ、察することさえ躊躇われるような事々に対して、無思慮に踏み入る暴虐を人は何故に犯してしまい、人を苦しめるのだろうと改めて思いながら、誰も彼もが、お手軽発信ツールを手に入れている時代の怖さを思った。知らなかったから、では済まされない過ちを犯すことだけはしたくないものだ。

 文が更紗に大切にしたいとは思ってると告げていたあゆみ(多部未華子)にミナミ(という姓)じゃなかったのねと言われて少し遣り取りをしてから、暫しの溜めの後に大人の女性と試してみたかったんだよという言葉を口にしたときの苦衷の深さに、すっかりやられてしまった。広瀬すずもたいしたものだったけれど、さすが松坂桃李だと思った。

 更紗にしても文にしても、それこそもう死んでしまいたいと思ったろうとの経験をここまで重ねたればこそのような“肚の座り”を最後に得ていたような気がする。そんな二人のこれからは、更紗が言っていたように、流浪して凌ぐということなのだろうが、陽の光ではなくとも、そこには確かな月の輝きがあるに違いないとしたラストを僕は支持したいと思う。

 十五年前の事件後、経済的には恵まれた親の扶養の元、長らくの引き籠りを続けた文と、養育者の伯母の元には戻れずに養護施設で育ったのであろう更紗が、ある意味、邂逅すべくして邂逅し得た、余人には判らずとも、二人にとっては救いの物語だったということのような気がする。




参照テクスト:凪良ゆう 著 『流浪の月』読書感想



推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982415992&owner_id=425206
by ヤマ

'22. 5.23. TOHOシネマズ1



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