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『自由の幻想』(Le Fantome De La Liberte) | |||||
監督 ルイス・ブニュエル | |||||
この作品は、本・写真・自動車・靴といった小道具、または公園・医院・宿屋・教室といった空間によって連なる、登場人物のシリトリ・ゲームからなる小咄集であり、そのなかで、ブニュエル一流のブラック・ジョークやギャグが繰り拡げられていく。やたら可笑しく、感心させられるものもあり、また、今一つピンとこないものもあれば、つまらないものもある。冒頭は、スペインのトレドの町で、侵略してきたナポレオン軍に銃殺される人々である。彼らの叫ぶ声は、自由発祥の地フランスに対してなればこその、皮肉たっぷりな「自由万歳」ならぬ「自由くたばれ!」で、この一言は、タイトルと相まってシニカルなキーワードとして全編を通じて観客に印象づけられる。 最高に可笑しいのは、会食ならぬ会便のエピソードで、招待された客人たちがテーブルの周りにつくと、そこには椅子の替わりに便器が並んでおり、紳士淑女に子供も倣って、皆が一斉にモゾモゾと下着をずらし腰掛ける。そして、大真面目に始まる会話が、人口増加に伴う食糧危機ならぬ糞尿処理の問題なのである。そこでは、会食中にトイレの話をするのが下品なことであるのと同様に、会便中の食事の話は、端たないこととしてたしなめられる。どうにも我慢ならない時は、それこそ、そっと席を立って、別室の小部屋で独りで用を足すというか、腹を足すのである。馬鹿馬鹿しいといえば、馬鹿馬鹿しい限りである。しかし、こうして逆転の形で提示されてみると、かえって食事と排便とが、いかに同質の行為であるかを再認識させられる。共に生理に従った行為であり、本能的なものであり、且つ快感を伴う。ところが、一方は他人と分ち合い親交を深める、パブリシティを承認されたものであり、他方は親子・夫婦間でも、あくまでプライベイトな行為として区別され共有されないのが、いわゆる常識である。しかし、この正反対の位置付けは、そもそも何に起因するのであろうか。かつては、食 べるという行為も今ほどのパブリシティは与えられてはなく、人目に晒すものではないとされた時代もあったようだし、また逆に、ツレションだとかツレバリだとか云って、親交の証のようなものとして、排便が機能した状況もあったはずなのである。 このエピソードに限らず、ブニュエルの語る小咄の一見異様でおかしなことの大半は、実は在り得ないことでも何でもなかったり、常識という枠組みのなかで、人々が見落としている真実を鋭く突いたことであったりする。前述のエピソードが、人間の習慣の変化に伴って変わっていく運命にある法律規範に関する、法学教室の講義のなかで語られるのも、常識というものの不確かさを仄めかしているわけで心憎い。 立派な寺院や凱旋門の絵葉書を見て性的興奮に駆られる夫妻にしたって、確かに異様ではあるが、彼らが権力や権勢の象徴であるそれらの建造物の絵葉書を眺めながら、「まあ、嫌らしい。」とか「これは、猥褻だ。」「こりゃ、ひどい。」と云っているなかで提示されている猥褻観は、一般に支持されている猥褻観よりも遥かに正当であるし、行方不明の少女を当の少女を連れて捜索する父親と警察のエピソードでは、存在についての興味深い指摘がある。つまり、いわゆる常識では、眼前に実在しているものほど確かなことはないとされているが、実在というものも所詮は、存在の認識という観念に支えられているのであり、いくら実在していても、その存在が認められなければ、不在と同じ扱いを受けるということである。世の中で事実とされるか否かは、結局、多数の承認者が得られるかどうかに拠るのであり、真実かどうかはあまり問題ではないことが多い。観客が、その少女はそこにいるじゃないかと言っても、登場人物の誰もが承認していない以上、それは不在として処理されるのであり、眼前に実在していることも、その不承認の前にあっては、何ら効力を持つものではなく、不在としての処 理を妨げるものではないのである。観客としては、むしろ、その存在を認めるゆえに起こる自分のなかの違和感のほうが顕著になってき、奇妙な感覚に襲われる。作り物である映画の画面を観ていてですらそうなのだから、認識という観念の支えなどというものは、脆いものだと知らされる。いかにもブニュエルらしいエスプリと人を食ったユーモアに満ちた作品である。 少し残念なのは、元に戻る形による締め括りが、ちょっとぶっきらぼうで鮮やかさに欠ける点である。シリトリ・ゲームの構成に気づいた時点で予想されたラストだけに、もう一工夫してほしかったと思うのは贅沢というものだろうか。 | |||||
by ヤマ '87. 1.26. 名画座 | |||||
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