『けんかえれじい』['66]
監督 鈴木清順

 もう四十年来となる宿題映画を遂に片付けたわけだが、古くは『ビーバップハイスクール』『クローズ』ワルボロなどのシリーズに継がれる学園ものの源流だったのかと驚いた。そして、奇しくも前日に温泉スッポン芸者を観たところだったものだから、岡山の旧制中学に通う南部麒六(高橋英樹)が先生と慕う喧嘩道の師匠(川津祐介)の通り名がスッポンであることに奇遇を覚えた。

 若かりし頃に仄聞したほどの秀作だとは思えなかったが、「自瀆しません、喧嘩で發散するんです」という十代の“わが血潮のうずき”の普遍性には大いに説得力があり、本作の撮られた昭和四十年代であろうが、本作の舞台となった昭和十年代であろうが、前記の後年作がシリーズ製作された平成の時代であろうが、変わりなく継がれるものだと思うし、南部が会津に転校して切った啖呵の心意気は、若者に普遍的に支持されてしかるべきものだという気がする。

 '60年代に敢えて戦前の旧制中学の「反抗は男子の本懐」「度胸をつけるために校則を一つ一つ破る」などを掲げて喧嘩に明け暮れる学生を描き、226事件に繋げたドラマにした企図において、当時の学生運動は大きな位置を占めていたのだろう。そして、そこが支持されてこその評価だったであろうことを終盤を観て得心した。「眼付け」から始まり、最後を「運の尽き」で終える数え歌を主題歌にしていたのも、そのようなところにあったのかもしれない。されば、当時を同時代に過ごした若者にとって格別の味わいがあるのであって、僕が絶賛を仄聞した'80年代に、僕と同じ年頃の者が感じ取れるものではないことのような気がした。

 とはいえ、クリスチャンだと宣うスッポンがOSMS団の団長たくわんに、嘘じゃないと言う“シスターねた”が可笑しかったし、先輩の映友から教えてもらった、麻雀好きの大橋巨泉が再婚で攫って行ったとの浅野順子の演じていた道子に焦がれる麒六の立直ピアノにも笑った。同じ障子破りでも、太陽の季節['56]のような慎太郎的尊大さとは対照的な純朴さが好もしい作品だった。同じ日活作品だったが、本作で“障子破り”が印象深いショットとして現れたとき「そうか、この当て付けのための立直ピアノだったのか!」と思った。もちろん僕は太陽族より麒六を支持する、立ち回りの喧嘩は苦手だけれども。また、226事件を示した“兵士の隊列との雪道での行き違い”には、愛のコリーダを想起した。この三作は、奇しくも '56年、'66年、'76年と十年おきに製作されている。

 ともあれ、良い志を久しく抱いた“バンカラ”良志久(らしく)、麒六は最後の場面で大喧嘩の志を胸に上京していたわけだが、喧嘩道の数え歌に挙げられていた、肝っ玉・腕の冴え・身のこなし・心意気・糞度胸・攻めっぷり・粘るべし・逃げる脚というものを岡山と会津で、彼は確かに身に付けていたようには思う。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/2980415475391349
by ヤマ

'21. 4.28. DVD観賞



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