『ネバダ・スミス』(Nevada Smith)['66]
監督 ヘンリー・ハサウェイ

 マックィーン西部劇として名のみぞ知る作品だったが、これほどのトンデモ映画だとは、夢にも思わなかった。奇しくも前日に観たけんかえれじいと同年の作だ。既に『荒野の七人』『大脱走』も経た後の、どう観てもオッサン面したマックィーンが“坊や”だとか呼ばれていて、白人の父親の顔見知りのならず者たちに先住民の母親を皮剥ぎは久しぶりだとか言われながら惨殺され、孤児となって復讐の旅につく話なのだが、まったくもう場面のためだけに話を継いだ、その運びの凄まじさは、先ごろ観たばかりの鈴木則文監督の東映ポルノほどではないまでも、かなり遜色のないほどにぶっ飛んでいて、なんでそうなるの?とワケがわからなかった。

 ただ捜索者』の映画日誌このところBSプレミアム録画で観た西部劇には、そのような境遇(白人と先住民の混血や養育)の登場人物が頻繁に登場している気がする。もっとも、数多ある西部劇のなかから、いま世界的に深刻になってきている人種人権問題に関連するような作品を敢えてセレクトして放映しているような気がしなくもない。と記した点については、『さらばバルデス』に続き、さらに補強されたように感じた。これで太陽の中の対決['65]のポール・ニューマン、さらばバルデス['73]のブロンソン、本作のマックィーンと名だたる役者が演じたものを観たことになる。

 ずっとマックス・サンド(スティーヴ・マックィーン)なのに、なぜ、森の石松、清水の次郎長みたいなネバダ・スミスなのだろうと思っていたら、最後のほうでこれだけで作品タイトルになるわけ?というエピソードが現われ、仰天した。そして、並のガンマン以上の腕前を持つ銃商人コード(ブライアン・キース)から銃撃を教わり、どうやら親戚筋に当たりそうなカイオワ族の娘ニーサ(ジャネット・マーゴリン)から文字と筆おろしの手ほどきを受け、なぜか似たような境遇を見透かされていたかのような神父から隠れた自分を発見しろと神の教えを受けて、一人前の男になる物語の運びの仕様については、他にもいくらでもありそうなものだが、まったく凄い脚本だと思った。いろいろ経験して数多の人たちから得難い教えを受けた“坊や”が、最後に神父から“赦し”のまじないを仕上げに掛けられたかのようにして解脱し、銃を捨てる姿を以て、真の男になったということなのだろうが、いささか開いた口がふさがらなかった。

 それにしても、文字と筆おろしだなんて、まさかアメリカでも“筆おろし”などというような言い方をするのかと動揺させられるとともに、まったく割の合わない最期を遂げる美女ピラー(スザンヌ・プレシェット)とマックスが出会うことになった慰安所もどきは、いったい何だったのだろうと不思議で仕方がなかった。
by ヤマ

'21. 4.29. BSプレミアム録画



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