『プロミシング・ヤング・ウーマン』(Promising Young Woman)
監督 エメラルド・ファネル

 エグイようでヌルイ、なんとも中途半端な作風のように感じた。'80、'90年代のこの手の映画の印象からすれば、いかにもパンチ力を欠いていて残念だった。それからいくと、先ごろ観たばかりのMr.ノーバディは大したものだと改めて思った。

 聞くところによると、本作はアカデミー賞作品賞の候補作だったそうだ。やや意外な気がしたが、そう聞くと如何にもな感じがして興味深く感じた。この題材で女性が脚本・監督を担った映画だということと、ミー・トゥー・ムーブメントが背景にあってのことのような気がする。映画というものは元々キワモノというか、時代を反映して作られ売られるものだから、とりわけ賞イベントにおいては、タイムリー性と話題性が重視されるのだろう。その点では、まさに時宜を得た作品だったように思う。

 それにしても、キャリー・マリガンらしからぬキャラクターのカサンドラに驚いた。イン・ザ・カットのときのメグ・ライアンよりも意外な感じが強かった気がする。

 映友からは、僕が映画日誌に「凄い映画だ」と記した女王陛下のお気に入りよりも上だと思うという意見をもらった。なかなか興味深い作品を引き合いに出してくれたとにんまりした。思い掛けなかったが、振り返れば、確かに相通じるように感じられる部分がたくさんあるような気がする。さればこそ、かの作品が俎上に上がるのは、僕がかくも歪んだ世界を御覧あれとばかりに歪曲させた映像で宮廷生活を描き出し、その周到で醜怪な権力闘争の切実さと滑稽さをグロテスクなまでの猥雑な悪趣味と絢爛豪華な映像美で繰り広げ、ある種の哀感とともにシニカルなエンディングを用意していたかと思っていたらと記してあるような表現部分での話になるのだろうから、テーマ性とかではなくて、嗜好性による差異ということになるような気がした。

 おそらく映友は『女王陛下のお気に入り』の表現に遣り過ぎ感を覚え、『プロミシング・ヤング・ウーマン』がちょうどの味加減だったのだろう。それに対して僕は、前者に舌鼓を打ち、後者を中途半端だと感じたのだろうという気がした。ちょうど『Mr.ノーバディ』を愉しんだばかりだったということも作用しているかもしれない。

 また、三十余年前の『告発の行方』を引き現実はそこからちっとも前進していないと記して本作を傑作だと言う別な映友女性からは、『アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ』みたいに、夜な夜な男を誘っては、半殺しみたいにするのかと思っていたので(「アイ・スピット~」は、レイプした男を皆殺しにした。それはそれで爽快)少し肩透かしでしたが、よく考えれば、大の男相手に、か弱い女性がそんな事出来ません。といった意見を記した映画日記の案内をしてもらった。

 それに倣えば、『告発の行方』や同じジョディの出演作ブレイブ ワンのほうがインパクトがあったような気がした。キャリー・マリガンは思わぬ好演で驚いたのだが、その勢いで本作では、『Mr.ノーバディ』のハッチ・マンセルには及ばないまでも、『ブレイブワン』のエリカくらいには行ってほしい気がした。確かによく考えれば、大の男相手に、か弱い女性がそんな事出来ませんなのだが、映画なのだから、酔ったふりをして、自分をお持ち帰りする男たちに、暴力を振るう、または説教だけして、相手から自尊心を奪い取るじゃあ、何ともヌルイ気がすると改めて思った。そうしないと復讐ではなく、自傷行為という面が描き出せないというものでもないように思う。

 また僕は、あのペンダントの意匠とカサンドラの受傷の深さから、ニーナと彼女は恋人関係にあったように感じたのだが、父親が娘も同然だったニーナと言っていた台詞が妙にエクスキューズめいているようにも思った。なんだかいかにも取って付けたように幼馴染を思わせたりせずに、堂々と同性愛の恋人にしておけばいいのにというような中途半端な煮え切らなさを覚えたのだ。

 映友からの意見は、私も最初は、なんか生ぬるい復讐だなぁと思っていました。でも考えてみると、倫理的にはキャシーに許せない男たちであっても、直接はニーナの自殺には関係ない男たちでしょう? 殺したり痛めつけるのは、精神的なものでいいんじゃないかと思いました。とのことだったが、そこにこそ僕の感じた中途半端さの核心が潜んでいることに気づかせてもらったように思う。単に映画は現実そのものではないから過激な表現をしてもいいはずなのに物足りないというような中途半端さではないということだ。

 殺しや暴力のみならず私刑は認められていないのが現在の法治国家だから、ネット制裁とか精神的なものも含めて、もちろん現実的には、やってはいけないことなのだが、映画世界は現実では許されない行為の表現が許されるとしたものなれば、そこで、そういう手心を加えるのは中途半端だと言うほかない気がする。たとえばイジメの問題などでも、直接手を下している者以上に己が手を汚さずに囃し立てたりけしかけたりしている奴のほうがタチが悪いというようなことがあるわけで、そういう場面において“直接”でもって分けるのは、映画世界だと尚更に大いに疑問で、ただの中途半端では済まないことのように思う。

 もしかすると、ニーナが自殺をした直接の原因は、レイプされたこと自体よりも、まわりの誰も助けてくれなかったことへの絶望のほうにあるのかもしれないわけだし、カサンドラが人の命を救う仕事を担う医師を養成する大学を辞めずにいられないほどの怒りを覚えたのは、まさに誰も助けようとしなかったことにこそあるからだとなるべき作品のように感じた。もっとも、ライアン(ボー・バーナム)については加担の記録動画があったが、マディソン(アリソン・ブリー)については“助けることができなかったけれども、加担はしていなかった可能性”があると同時に、“我が身を守るための編集を加えたものを提供して先んじた可能性”もあるわけで、事は単純ではない。この種の事案の非常にデリケートで、むずかしい部分ではあると思う。




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by ヤマ

'21. 7.16. TOHOシネマズ1



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