『ロシュフォールの恋人たち』(Les Demoiselles de Rochefort)['66]
『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg)['64]
監督・脚本 ジャック・ドゥミ

 高校の映画部長から託されたひきしお』『うず潮』『恋のマノン』による「カトリーヌ・ドヌーヴ トリプルBOX」に続き、ドヌーヴ出演の未見ミュージカル2本という、かねてよりの宿題を片付けた。

 先に観たのは『ロシュフォールの恋人たち』で、三年前にラ・ラ・ランド』を観たときの日誌にはそうか、『巴里のアメリカ人』['51]がやりたかったんだなぁとしか触れていなかったけれども、本作を観ていれば、当然ながら本作も浮かぶだろうと思った。ハイウェイではなくて運搬橋(フェリーかと思ったが、そうではないらしい)だったりするけれども、オープニングからして、おぉ~と思ったし、曲調が似ているばかりか、本作も音楽家やショービジネスの話で、ジャズが出てきたりもする。

 さらには『巴里のアメリカ人』に出演していたジーン・ケリーが、ソランジュ(フランソワーズ・ドルレアック)の憧れる作曲家アンディとして出ていたり、ダンスの振り付けが、本作で旅芸人のエチエンヌを演じていたジョージ・チャキリスを世に知らしめた『ウエスト・サイド物語』['61]の足を高く上げる踊りを踏まえつつ、『巴里のアメリカ人』で取り上げられていたバレエ的な優雅さを加味していて、ソランジュの双子の妹デルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の仕事がバレエ教師だったりしていることが目を惹いた。

 先頃観たエジソンズ・ゲーム』の日誌大きな影響を与えるほどの発明は、一人その名を冠せられる発明家個人によって果たされるものではないということをよく描き出していた・・・エジソンとても他者や先人の業績の恩恵を蒙るなかでの発明であるなどと記したばかりだったが、何も発明に限った話ではないことを改めて思った。

 それにしても、何やら複雑そうな家庭事情の窺える環境のうえに、殺人事件まで絡むのに、この底抜けの明るさと陽気でカラフルな画面による物語展開を見せていて、いやはや恐れ入った。また、長回しのなか繰り広げられる動線設計の見事さにも、大いに感心させられた。そして、運命が偶然を引き起こし、偶然が運命を呼び寄せるというような人生観が、「だから、男も女も些事に囚われることなく、気持ちの向くままに生きて行け」と言わんばかりに綴られていて、何だか呆気に取られてしまった。

 もっとも、シモン・ダム(ミシェル・ピコリ)の名前が気に入らなかったイヴォンヌ(ダニエル・ダリュー)とか、まだ見ぬ相手たる画家マクサンス(ジャック・ペラン)の瞳の色を気にするデルフィーヌとかの囚われを些事とするか否かは、見解の分かれるところなのかもしれない。だが、イヴォンヌがシングルマザーを選ぶ理由に足るようには思えないし、作中でも彼女自身が過ちとしているように感じた。そして、当時23、4歳のカトリーヌ&フランソワーズを娘とし、10歳との設定の息子ブブを持つ母親役を演じるよりも姉役のほうが相応しいのではないかと思えるダニエル・ダリューの、当時の49歳にはとても見えないアンチエイジングぶりにも恐れ入った。

 思うに『ラ・ラ・ランド』は、本作の持つ実に朗らかなメジャー・テイストに、哀感を加えたマイナーへの転調アレンジを施したものだった気がする。だから、同じ“運命”を語っても、すれ違っていって最後は別々の道を歩み、本作のようなヒッチハイクでのトラックへの乗り合わせで終わったりはしなかったわけだ。


 翌日に観た『シェルブールの雨傘』は、同じくジャック・ドゥミ監督・脚本によるもので、ドヌーヴの出世作として名高い作品だが、何故か今まで観ることもなく来ている縁の薄い映画だった。前日に観た『ロシュフォールの恋人たち』ほどではないにしても、同様に実にカラフルで原色系の色鮮やかな画面と、オープニングで「歌ばかりで面白くないオペラよりも映画がいい」などと歌わせながら、全編通じて全ての台詞をシャンソンよろしく音楽に乗せた作劇法が目を惹いた。

 オペラと違って心情や想いを謳い上げる歌曲はなく、全ての歌が台詞そのものであることが、オペラにもミュージカルにも見られない手法のように感じられるとともに、踊りのないまま歌ばかり続くミュージカルスタイルが妙に観ていて落ち着かない気持ちにさせられたわけだが、作り手は敢えてそうしているに違いないとも思った。台詞を全て歌にすれば、いくらシャンソン風に語るように乗せたとしても、どうしたって喋るより尺がのびるわけだが、それで100分を切って、ベタベタの恋愛時から別れを経て、それぞれが子持ち家庭を営むようになった後の再会までの、降雨に始まり、降雪で終える6年間の物語を描いているのだから、見事というほかない。

 映画は未見でも耳に馴染んでいるジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)とギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)が掛け合いで「貴男なしでは生きていけない」と涙し歌う場面の情感は、やはり流石だった。僕の多くの映友たちのように十代であのドヌーヴを観るのと、還暦も過ぎて初見するのとでは、映画体験的には、同じ映画を観たとは言えないくらい違うだろうが、名場面であることに些かの揺るぎもないように感じた。また、あの歌声が吹替えであることを知らずに観るのと、知っていて観ることの違いにしても同様だろうが、まこと映画体験なるものは人同士の付き合いにも似て、同じ作品を観賞しても、それぞれが固有の体験だとしみじみ思う。十代で強く焼き付いている者には、還暦を過ぎて初めて観た者が感じる、本作に描かれた悲恋や若気の熱と愚、人生の綾に対する感慨の持ちようを自分のうちに観ることは難しかろうし、その逆もまた然りというわけだ。

 だが、かの名場面以上に、僕が最も惹かれたのは、最後、1963年12月にギイとの間の娘フランソワーズを連れて彼と再会した場面でのドヌーヴだった。役柄だと23歳の子持ち若妻ということになるけれども、とても23歳とは思えない貫禄すら漂わせた色香を放射していて、オープニングの1957年11月の17歳の頃との差の大きさに唸らされた。さらに驚くのは、このときのドヌーヴの実年齢は20歳に過ぎないことだ。前年に出演した『悪徳の栄え』を撮ったロジェ・バディム監督との間にできた息子の出産は終えていたにしても、恐るべき早熟なる開花とその後も華の衰えを老境に至るまで一切見せないままのトップ女優であり続けていることには、他の追随を許さないものがあるように思う。早熟なる開花以上に凄いことだという気がする。こうなると、リバイバル公開時のチラシは持っているけれども未見のままになっている『悪徳の栄え』['63]についても、もうそろそろ片付けておきたくなった。
by ヤマ

'20. 7. 2. BSプレミアム録画
'20. 7. 3. DVD観賞



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