『家族を想うとき』(Sorry We Missed You)
監督 ケン・ローチ

 ラストで「Sorry We Missed You」(原題)と印刷された不在通知票に書置きをして、満身創痍のまま職場に出ようとするリッキー(クリス・ヒッチェン)を観ながら、映画の冒頭で生活保護の話をされ「俺にもプライドがある」と返していた、彼の言葉を想起した。まさに、その誇りがいためつけられていく物語だった。

 どうにもできない借金で縛り、夫としての、父親としての、労働者としての、人の誇りというものをとことん傷つけて働かせる、もはや収奪資本主義と呼ぶほかない、強者のやりたい放題を自由などと呼ぶ“新自由主義”なるものへの憤慨を禁じえなかった。

 労働者の権利を求める労働運動発祥の地としての先進国だったイギリスの面影は、もはや何処にも見られなくなっているのだろう。かつて「ゆりかごから墓場まで」との言葉を生み出した国の現在を、引退宣言を撤回してまで撮らずにいられなかったケン・ローチの英国人としての誇りと憤りが感じられた。

 自営という名の偽装を凝らした悪辣な収奪の仕組みがフランチャイズ方式を借りて脱法的に蔓延し始めた端緒は、どこからだったのだろう。自動車運転による宅配などという事故や故障といった事業者リスクの高い業種で、リスクのほぼすべてを契約自営業者の側に押し付ければ、いわゆる“競争力”は、飛躍的に向上するだろうが、それがスタンダードになってしまえば、忽ち競争力も失われ、ひたすら働き手を苦しめるしかなくなる。シフト調整すらドライバー側に押し付け、休暇を認めず、穴をあければ、違約金というペナルティまで掛ける仕組みを仕込んであるのだろう契約書は、いわば、奴隷契約書と呼ぶべきもので、実際、現代はIT貴族を生み出すと同時に、ブラックボックスと呼ばれる端末に支配され拘束されるIT奴隷を生み出しているのだろう。

 スマホ決済どころか、ケータイ自体を所持することに抵抗している僕は、幸いにして既に現役を退いているからそれでも支障なく暮らしているが、現代の労働経済の歪みは、もう限界点まで来ているような気がしてならない。

 基本的に真面目で、心根は優しく、頭も悪くないのに、少々見境のないところがリッキーそっくりの息子セブ(リス・ストーン)の怠学を咎めながらも、息子から、親友ハープーンの兄貴が無理して大学に行った末に奨学金返済に苦しんで飲んだくれていると抗弁されて、返す言葉のない国になっているわけだが、日本でも同じことが起こっているようだ。

 息子に何らの標も示せぬまま、その制止を振り切って数千ポンドの借金を想いながらハンドルを握っていたリッキーの心中は如何ばかりかと、苦しくてならなかった。そんなラストシーンを持つ作品に「家族を想うとき」との邦題をつけるのは、いささか酷に思えて仕方がない。

 我が国にもオーナードライバー制度は拡がっているようだが、その実態を僕は知らない。コンビニエンス・ストアのフランチャイズ・オーナー問題は報道事案になったから、多少のことは仄聞しているが、実地に見かけたことのあるコンビニホテルのフランチャイズ・オーナーの実態など、まるで知らない。だが、本作でも睡魔に見舞われながらの運転場面が出てきたように、生命の危険を負っている度合からいって、業態からすると、配送業のほうが遥かに過酷そうに思う。

 かといって一律に自営業主を排除し、直接雇用しか認めないようすべきだとは思わない。ただ、手数料とか管理料とかについて、融資における利息と同様に法定上限を置くべきだ。そして、実働側への配分が保証される制度に規制されなければならないし、罰則(違約)規定についても制限が課せられるべきなのだが、なにせ世の東西を問わず、ルールを決めるのも変えるのも、無視することさえも、新自由主義とやらを掲げる経済的強者なのだから、救われない。せめて経済的強者を政治的弱者に追いやる、換言すれば、経済的弱者を政治的強者に置いてバランスをとる仕組みが必要なのだが、かつて民主主義の名の元に、我が国で財閥解体や小作解放を進めることによって企図されたものが、市場競争性や選挙結果を盾にしてすっかり蔑ろにされるに至っている。ケン・ローチが看過できなかったと思しき“英国人としての誇りと憤り”は、戦後日本に生まれ育った僕の“日本人としての誇りと憤り”に重なってくるものがあって、強い感銘を受けた。

 さすがに邦題を台詞どおりに「数千ポンドの借金を想うとき」とするわけにもいかないだろうが、映画を観ている間中、腹立たしく遣り切れない想いと、どこまで傷めつけられていくのだろうとの不安で、何とも落ち着かない心持ちだった。そして、セブや妻アビー(デビー・ハニーウッド)の制止を振り切って職場に向かったラストショットのあと、リッキーはどうしたと思うか、観た人それぞれの意見を伺いたい気持ちになった。出掛けに息子のセブに言っていた「今晩話がある」というのは、いったい何を話すつもりだったのだろう。

 折しも、横浜地裁がこの日の前日に、宅配業者ではなく引っ越し大手企業が業務遂行上に発生した荷物や建物の破損による賠償金の一部をアルバイトを含む従業員に賠償させていたことに対する、返還命令判決を出していた。オーナー制度によって偽装するまでもなく、そういったリスク責任の押し付けが労働現場におろされているわけだ。小賢しい不労所得ばかり優遇して、働く者が報われない世の中が、小泉政権時に連呼され、安倍政権の引き継いだ小賢しく振舞うことに頑張った人が報われる社会だったと改めて今、思う。

 その小泉政権下で経済政策とりわけ労働経済の破壊を主導したと思しき竹中平蔵は、六年前に綴った太陽の季節』の映画日誌にかこつけて僕は、あまり人の好き嫌いが激しいほうではないつもりなのだが、どうにも嫌いな人物が五人いて、そのトップスリーが石原慎太郎と竹中平蔵、安倍晋三だと、かねてからの思いを記した際に挙げた人物のうちの一人だが、今また経産省による持続化給付金の電通への再委託が疑念を呼んでいる一般社団法人問題でも、水道事業の民営化問題でも、更には水道に限らぬ公共そのものの民営化を画策するスーパーシティ問題でも、その名が取り沙汰されているようだ。すっかり味を占めて今や民営化利権の黒幕とされる利権亡者と化しているらしい。





参照テクスト:『家族を想うとき』のエンディングの後をめぐって



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20062501/
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974133955&owner_id=1095496
by ヤマ

'20. 6.26. あたご劇場



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