カトリーヌ・ドヌーヴ トリプルBOX

『ひきしお』(Liza)['71] 監督 マルコ・フェレーリ
『うず潮』(Le Sauvage)['75] 監督 ジャン=ポール・ラブノー
『恋のマノン』(Manon 70)「'68」 監督 ジャン・オーレル

 先ごろ観たばかりの芳華のオープニングだった '76年に、大学進学で上京した僕の最初の住まいは、今どきもう絶滅しているのではないかと思われる賄い付きの下宿屋だった。二階の端の部屋の向かいに住んでいた同じ大学の法学部4年の先輩にいろいろとよくしていただいたのだが、彼の好きなのが若大将とドヌーヴで、しょっちゅう話を聞かされていた覚えがある。「ドヌーヴの『ひきしお』は観ているか」と訊かれて「観てない」と応えると「あれはなかなか凄い映画なんだ」と宣い、「それ以上に『うず潮』のドヌーヴがいい」と言われて以来、気になっているのだが、両作とも四十年余り経た今だに観ていなかったところへ、高校時分の映画部長がその両作の収録されたトリプルBOXを貸してくれた。もう一作は『恋のマノン』で、これまた高校時分に親父から話を聞かされた覚えのある『マノン・レスコー』のマノンをドヌーヴが演じている未見作だから、まるで僕のために誂えられたような作品集だ。

 そこで、パッケージの最上段に掲載されていた『ひきしお』から観始めたのだが、思いのほか観念的な作品で、些か意表を衝かれた。もっと官能的な映画だろうと思っていたからだ。この当時、二十代後半だったドヌーヴは、確かに魅力的なのだが、彼女の演じたリザの人物像が僕のなかで上手く像を結ばず、しっくり来なかった。かのドヌーヴが “おねだり犬” になっていることのインパクトはあっても、妙味に乏しかったような気がする。

 マルコ・フェレーリ監督の作品を観たのは初めてだと思うが、かねてより気になっている『未来は女のものである』['84]への興味が大いに削がれた。原題の「リザ」を『ひきしお』との邦題にした着想はどこから来たのだろう。仏伊合作のイタリア版タイトルは「雌犬」だったようだが、それなら判る。ドヌーヴもさることながら、ジョルジオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の妻を演じて尻を振っていたコリンヌ・マルシャンが目を惹いた。

 映画的には、わりと浅薄で趣味の悪い作品だったような気がする。せめて金曜日の別荘でくらいのしっぺ返しを経てからの桃色飛行機でのテイクオフでないと、ただの食糧難からの脱出でしかなくなる気がして興醒めた。


 パッケージ中段に掲載されていた『うず潮』は、いやはや何とも手に負えない疫病神のようなネリー(カトリーヌ・ドヌーヴ)に、些か唖然としながら観た。あれでは、ビットリオ(ルイジ・バヌッチ)ならずとも、結婚生活は破綻するに決まっているという気がした。だが、そんな女性像さえ「ドヌーヴよ、文句ある?」と納得させるのだから、やはり流石だ。この時分のドヌーヴは、金髪も乳房も豊かで、とても華があると改めて思った。

 奇しくも『ひきしお』に続き、生活力に溢れた男の島での孤高の一人暮らしに闖入するわけだが、三十路に入ったドヌーヴは、よりパワフルだった。感情の赴くままに振る舞う野生児のごとき有り様であるがゆえの原題なのだろう。邦題は、それに翻弄されるマルタン(イブ・モンタン)の側からのものとして付けられた題のようだが、『ひきしお』との対照からすれば、ナイス・ネーミングだと思った。

 生活力で言えばマルタンにしても、『ひきしお』でリザの足に刺さった棘を歯で挟んで抜いてやり、小器用に手製のサンダルを作って履かせてやっていたジョルジオをはるかに凌駕していて、愛犬メランポすら必要としていなかったのだが、ネリーの渦にはひとたまりもなく巻かれてしまっていた。おそるべし、ドヌーヴというところだ。

 そう言えば、件の下宿屋の先輩は、恋した女性に翻弄されることを好んでいた気がする。ときおり「参ったなぁ」などと零しながら嬉し気にしていたことを思い出し、四十年余りを経て彼がドヌーヴのファンで『うず潮』がお気に入りだったことへの得心がいった。そして、その「参ったなぁ」という台詞は、思えば、若大将シリーズの加山雄三がよく発していたような気がする。


 最後に観た『恋のマノン』は、最も若く二十代半ばのドヌーヴの出演作だった。いきなり漢字表記が現れて意表を突かれたが、羽田空港でデ・グリュー(サミー・フレー)がマノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)を見初めて彼女と同じファーストクラスに航空券を交換する場面から始まっていた。そのための費用425ドル余りが15万円余になるレートだった時代の作品だ。

 僕が十代の時分、ドロンとドヌーヴは、本国よりも日本での人気が高いと仄聞した覚えがある。そのようなことも作用してのオープニングシーンだったのかもしれない。羽田発のスカンジナビア航空国際便には着物姿の日本人CAが搭乗していて、当時は機内での喫煙も当たり前のようにして寛いでいる様子が目を惹いた。

 僕の書棚にある新潮文庫の『マノン・レスコー』には、'79.6.18.の読了日が記されているのだが、紐解くまでもなく、18世紀フランスロマン主義文学の登場人物は飛行機になど乗らない。だが、本作でそれなりに敏腕記者だったデ・グリューが終いには、自活力もまるでない紐稼業のくせしてというか、その金蔓に頼るしかないがゆえにこそ、女への執着心と束縛が嵩にかかってくる自堕落な色男に成り下がっている顛末は、ある意味、原作に忠実になぞられているようには感じた。

 そんなデ・グリューは、カモにしようとした金持ちのフランク(ロバート・ウェバー)に嫉妬して彼の仕掛けた盗聴マイクを逆手にとって、マノンに自分への愛の言葉を口にさせてフランクに聴かせて計画を台無しにしてしまい、彼女から疫病神呼ばわりされていたが、マノンこそデ・グリューにとっては、ファムファタルでは済まない疫病神のように感じられた。とはいえ、二人が知り合った端緒のときからして、フランソワ・デ・グリューには、原作小説のシュヴァリエ(騎士)・デ・グリューのような純情は付与されておらず、堕ちて行っても然したる同情を引くような人物造形にはしていない気がした。描きたいのは、デ・グリューの堕落ではなく、マノンの“時代を生きる”姿なのだろう。原題「Manon 70」の示す意味はそこにあるのかなと思った。

 そして、ちょうどニースという舞台が登場したことも相まって本作の若きマノンに対して、シャーリーンの歌う愛はかげろうのように['76]を想起した。思えば、『うず潮』のなかでもジーン・ハーロウの名は出てきたように思う。何かの偶然だろうか。
by ヤマ

'20. 2.13. DVD観賞
'20. 2.15. DVD観賞
'20. 2.23. DVD観賞



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