『モリのいる場所』
監督 沖田修一

 三十年もの間、家の外へ出ることなく、ひたすら庭の生きものを見つめ続けていたという画家の晩年の姿を描いた作品を観始めた際に、いささか偏屈とも言える個性的な生き方を貫いている人物に吸い寄せられるようにして人々が集まっている様子から、二日前に観たばかりのこんな夜更けにバナナかよを想起した。九十四歳と三十四歳の違いはあれど両作とも、その時点での個性の発現と周囲との関わりを描くことに焦点を絞っていて、その来し方を辿る伝記的な作品ではなかったのだが、『こんな夜更けにバナナかよ』と違って『モリのいる場所』では、観ているうちに、違和感ほどではないにしても少々倦んでくる気分が次第に生じてきた。なぜだったのだろう。

 熊谷守一の名と幾つかの作品くらいは知っていたけれども、特にファンでもなく、何の知見も持ち合わせてはいないが、もしかすると映画の作り手が、彼の画業から受けた“ユーモラスな不思議感”のようなものを映画に込めたくて、かなり捏ね回したというか創意を凝らしたことが、仇になっていたのかもしれない。

 これまでに僕が観て来た南極料理人['09]キツツキと雨['12]『横道世之介』['13]モヒカン故郷に帰る['16]からすると、脚本・監督を担った沖田修一との相性がよさそうに思える作品世界だけに少々意外だったが、いかにもそう感じられるところにこそむしろ陥穽があるのが、創造世界の難しさということなのかもしれない。作り手が熊谷守一の作品から受けたと思しき“ユーモラスな不思議感”を映画に込める際に凝らした意匠のほとんどが、僕の目には、何だか漫画『三丁目の夕日』の西岸良平的な趣向に映ったことが致命的だった気がする。

 しかも、九十四歳の熊谷守一を描いた昭和四十九年は、沖田修一の生年以前でありつつ、僕自身は同時代を過ごしてきているものだから、時代的なものが妙に気になったりした。例えば、モリ(山崎努)が、自庭の池の埋土をマンション建築工事の現場監督と思しき岩谷(青木崇高)に請け負わせた際に行った手締めを一丁締めで済ませたことに、違和感が拭えなかったりする。今でこそ一本締めの名の下に一丁締めが打たれることが普通になっているけれども、ちょうど前日に足を運んだ立川談春独演会の最後に談春が「こちらのほうでは一本締めと言うと、どういう形のものになりますか」と問うたうえで、本来の一本締めを行う旨の確認をして「パパパン、パパパン、パパパン、パ」と打ったように、敢えて三本締めとも一丁締めとも断りを入れない手締めとなれば、一丁締めではないはずで、明治生まれのモリがそんなことをするはずがない気がした。

 ただ、役者陣の個性を活かすことには抜かりなく、山崎努やモリ夫人秀子を演じた樹木希林のみならず、モリを慕って集う人々の温かみを引き出していたように思う。それだけに、ドリフネタを意識してか、文化勲章辞退のエピソードを過度に漫画的に処理した演出や、僕に西岸良平を強く印象づけた宇宙人ネタなどは、それで昭和色を出すようなものではないだろうと大いに残念だった。

 いま話題のカメラを止めるな!とも通じるところのあった『キツツキと雨』が、やはり僕はイチバン好きだ。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/19031005/
by ヤマ

'19. 1.14. あたご劇場



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