『カルメン故郷に帰る』['51]
監督 木下惠介
『モヒカン故郷に帰る』
監督 沖田修一

 『モヒカン故郷に帰る』というタイトルは、65年前の木下監督作品を想起させるけれども、父親の望むような身過ぎ世過ぎのできていない子供の七年ぶりの帰郷で、連れを伴ってのものであることのほか、特に共通点もないように感じられるオリジナル劇だった。

 本作を楽しむうえで、また来高する沖田監督と話をするうえで観直しておいたほうがよかろうと思って観た『カルメン故郷に帰る』は、フジカラーフィルム使用とクレジットされる65年前の作品だ。ストーリーは単純で既知のものだし、場面的にも随所に既視感があるものの、それが映画作品としての既見によるものか、断片を観ているに過ぎないのか、既に記憶が遠すぎて判然としないのだが、改めて主役は色なんだということを再認識した。最も手が込んでいる部分は、やはり色彩設計のように感じたからだ。だが、その意匠が、本編においてしつこく現れるフォークダンスの振付同様に、今観ると何とも垢抜けないモダンであるところに時間の風雪を感じないではいられなかった。

 リリー・カルメンことおきん役を演じた高峰秀子は、蓮っ葉娘の純情が実に似合っている。それにしても、女性の裸がゲージツの衣でもって語られていたのは、いつ頃までだったのだろう。僕が若かりし頃は、ある種の定番だったのに、いつのまにかとんと聞かなくなった。

 ちょうど「建前と本音」みたいなことが論考の命題たり得なくなってきた時期と一致しているような気がしないでもない。欲望というものに対して肯定感のほうが主流になると、衣は必要でなくなり、裸というかむきだしになってくるわけだ。そういう観点からも、古色に満ちた作品のような気がした。なにせ小林正樹や松山善三が助監督に就いている映画だから、経年の程が知れる。やたらと馬がたくさん出てくるからか、何か西部劇のような風味が差しているように感じられたことが妙に印象深く残っている。場面的なことではないところが興味深い。

 野外上映が天候不良でホール上映になった『モヒカン故郷に帰る』は、さりげなく印象的な場面を作るのが上手いとかねてより思っていた沖田監督作品らしい映画だった。そういう点では、対照的にも思える両作品だ。本作では何と言っても、隣接する病院と学校の屋上に分かれて指揮棒を振る入院中の田村治(柄本明)と彼の指導する十人程度のブラス部の演奏場面が目を惹いた。脚本からあったアイデアを満たすロケハンをしたのか、ロケ地を決めたときにたまたまそういう配置だったので工夫した演出だったのか興味が湧いた。

 前者だったら、なかなか凄いなと、画面の醸し出していた場面効果に魅せられながら思ったが、上映会後の懇親会で沖田監督に訊ねたところ、そんな都合のいい場所はないと言われながらも見つけ出したロケ地だそうで、目立たないかもしれないけど、あの場面は屋上だけでなく、各階からもタイミングを合わせて人々が顔を出すよう各室に音を引いた場面だと嬉しそうに答えてくれた。

 既に転移も認められる癌の告知を受けた治が島の病院のベッドで主治医の級友と将棋を指している場面も心に沁みた。大阪の大きな病院に転院できるよう紹介状を書こうかと言う主治医に対し、父親を看取った時のことに触れて「管とかいっぱい通すんだろ?」と零し、「お前でいいよ。」と口にして将棋を続けた二人の間に通っていたものに打たれた。

 誰にもいずれ訪れる終焉のときの看取りとして、この上はないように思われる最期を遂げた治の姿を観ながら、改めて音楽、なかんづく合奏とというもの良さに感じ入った。

 隣接する病院と学校の屋上に分かれての合奏場面もそうだが、「矢沢永吉は広島県民の義務教育だ!」と叫ぶ治が、その名を取った息子の永吉(松田龍平)が父親に代わって教室で指揮する演奏を病床の父親にケータイで聴かせる場面もなかなかよかった。

 前回来高したキツツキと雨で特に印象深かった場面は、岩風呂のシーンだったが、本作同様、たくさんのいい場面があったように思う。そして、出世作の南極料理人以来ではないかと思われる料理の丁寧な描出が本作でも踏襲されていて、映画作りのうえで沖田監督が大事にしている部分なのだろうなと感じた。
by ヤマ

'16. 9.26. DVD観賞
'16. 9.30. 美術館ホール



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