キネマM一旦ファイナル企画 “ニッポンのヒロイン 安藤サクラ祭り”

『百円の恋』['14] 監督 武正晴
『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』['10] 監督 大森立嗣
『僕らは歩く、ただそれだけ』['09] 監督 廣木隆一

 この三作品に0.5ミリ['14]万引き家族['18]を加えた五作品による特集上映企画のおかげで、観漏らしていた作品を観ることができた。

 最初に観た『百円の恋』は、まさにチラシに記された惹句「呆れる程に、痛かった。」がいろいろな意味で効いてくる力の入った作品だった。その安そうなタイトルが暗示しているように“ラブコメのときめき”とは最も遠いところにある映画で、とりわけ前半は、画面に満ちているろくでもなさにいい加減うんざりとしかけていたのだが、一子(安藤サクラ)がボクシングに真剣に取り組むなかで見違える姿になるのと呼応するように、俄然面白くなった。

 およそ恋の映画などではなく、一子の父親(伊藤洋三郎)の言う「自分のように、いい歳をして自分に自信の持てない大人になってほしくない」が示していた“自信”についての映画だったように思う。自信もまた、自身で獲得するしかないものであると同時に、他者から与えられるものである点において、対戦相手を得られないと叶わないボクシングの試合における勝利のようなものだ。三十二歳のリミットぎりぎりでプロ試験に一発合格して喜ぶ一子に「お前なんかにそう簡単に対戦相手が見つかると思うなよ」と釘を刺すジムの会長(重松収)の言葉が効いていた。

 そして、最後の場面でぐずりながら「勝ちたい~勝ちたい~」と嗚咽する一子の姿が印象深く、その未勝利ボクサーの一子に対して、目が出ないままに定年とも言うべき三十七歳で引退したボクサー狩野(新井浩文)が掛ける「勝利の味は格別やからなぁ」との言葉が心に残るのも、その「勝利」とは即ち「自信の獲得」を意味していることが伝わって来るからだろう。尾崎世界観などというかなりイタイ名前のシンガーが「痛い、痛い」と歌う以上に、一子の生き様そのものが、実にイタ~イ映画だったのだが、そのイタサにこそ心打たれる作品だったように思う。

 それにしても、安藤サクラの肥満とシェイプアップ、三十路に入った運動音痴っぽい鈍臭い動作と軽快なフットワークを見せる俊敏さの対照の見事さに恐れ入った。『レイジング・ブル』['80]のロバート・デ・ニーロには及ばずとも、彷彿させるに足るぐらいの体当たり演技に唸らされた。オープニングの背中の脇にはみ出た弛緩体はボディダブルかと思わせるほどの弛みを印象づけて圧巻だった。

 いったん帰宅し、夕食を済ませてから再び赴いて観た『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』は、手元に三種のチラシを保有し、かねてより気になっていた作品なのだが、昼間に予告編を観て尚更に楽しみになったことが仇になったか、今一つだった。エンディングテーマ曲に採用されていた阿部芙蓉美の歌う♪私たちの望むものは♪は、少々くどくともフルコーラスで歌われてこそ岡林信康による歌詞が生きてくる歌なのに、大友良英が端折ってアレンジしていたことが象徴するように、なにやらフェリーニの『道』['54]と、デニス・ホッパーのイージー・ライダー['69]を掠め取ってきたような印象がある。そんなものを二世俳優や二世監督で見せられてもなぁとの思いが湧いた。けっこう贅沢なキャスティングが仇になっているような気がする。もっとも、先ごろ観たばかりの大森監督作品日日是好日が素敵だっただけに、余計にそう感じたのかもしれない。

 続いて観た『僕らは歩く、ただそれだけ』は、上映前にプロモ映画で非劇場映画だとの断りがあったが、職業俳優と下妻市の宗道住民と思しき出演者の混在の有り様が、如何なるコンセプトにより、どういう制作主体が作り上げたのか、妙に不思議な感じを抱かせる映画だったように思う。商業映画のようであり、プライヴェートフィルムのようであり、何ともヘンな感じだった。
by ヤマ

'19. 1. 3. ウィークエンドキネマM



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