『イージー・ライダー』(Easy Rider)
監督 デニス・ホッパー


 二人のアメリカ青年が南部アメリカをバイクで旅する。ロスからニュー・オリンズへ。謝肉祭を観に行くという目的は仮初めのもので、目的などない、敢て言うならば、未だ見ぬ何かを求めての旅である。二人には捉われるものは何もない。まさしく自由気侭。そして、その象徴としての長髪とバイクである。 '69年という、この映画の作られた時点において、長髪もバイクもまだ手垢に塗れたシンボルには堕ちぶれていない。しかし、シンボルがシンボルとしての価値を持つ故にまた、目障りだと排斥もされるのである。彼らは、あくまで少数者であり、異端者である。従って、何処に行っても受け入れてもらえない。都市を逃れて集まった原始共同体的生活を営む自然主義者達の集団からさえも。

 凡そ、いかなるイデオロギーであろうと、何らかの準拠すべきものを持つ身であれば、捉われるものを何ら持たない自由は、放棄している。殆どの人は、自由でありたいと思いながらも、何ら拠るところなしには生きていけないのである。それ故、真に自由を体現しているかのように見える彼らに恐怖と憎悪を抱くというのは、ジャック・ニコルソン扮する酔いどれ弁護士の言を待つまでもなく、当然起こり得ることである。酔いどれ弁護士こそは、自由でありたいと願いながらも、自由になれない自分にやりきれぬ思いを持つままに酒に溺れる普通人なのである。彼は、自由人と不自由人との境界で喘いでいる。そして、眼前に現われた自由人に夢を託し、同化したために真っ先に不自由人の手によって撲殺されるのである。

 唯一得た同行人を失ったキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ) らは、彼と行くはずだった「ブルー・ライト」という娼家を訪ねる。そこでは、彼らも拒まれない。即ち、自由とは、あらゆる日常性の中で排斥され、拒まれるものであり、唯一自由なるままに迫害の手から脅かされずにすむのは、日常性の側からドロップ・アウトした非日常空間においてだけなのである。しかし、それとて、そこに閉じ篭ろうとせず、再び日常性の中に出て来ると、結局多数者である不自由人の手によって抹殺されるのである。何の関係もない行きずりの農夫の手によって射殺される二人を描いたラスト・シーンは、そういった意味での真の自由の宿命を描いている。しかも、辛いのは、農夫が農夫であって警官ではないことだ。自由の抹殺に直接手を下すのは、体制ないし権力ではなくて、いつも平凡なる不自由人なのである。
by ヤマ

'85. 2.17. 名画座



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