『万引き家族』
監督 是枝裕和

 主題も素材も、作り手の眼差しも、役者の演技も、どれも文句なしなのに、終始つきまとう違和感が拭えなかった。つくりもの家族の話だからこそ、つくりもの感が漂ってしまうと、作品的には致命傷になるのだと思う。

 子どもに万引き指南をする父親の話にしても、死亡者の年金を詐取する遺族の話にしても、非正規雇用労働者の長期の繋ぎや不法解雇にしても、低賃金に喘ぐ従業員によるちょろまかしにしても、未成年女子(法改正により成年女子となりそうだが)による風俗営業も、児童虐待や同居者間でのドメスティックバイオレンスにしても、パチンコ店駐車場の車内への幼児置き去りにしても、疑似家族によるワークシェアならぬファミリーシェア共同体にしても、ここに描かれた事象そのものは、どれも紛うことなく今のニッポンで起こっている事々なのだが、だからと言って、それらを繋ぎ合わせたところでアクチュアリティが浮かび上がるというものではない気がする。

 巧みな演出と演技で“実在感(リアリティ)”満点なのに、“現実感(アクチュアリティ)”を欠いているという何ともヘンな感じがしてならなかった。本作がカンヌで最高賞に輝いたのは上述したように主題も素材も、作り手の眼差しも、役者の演技も、どれも文句なしだからなのだろうが、日本社会で暮らしていない外国人審査員には伝わらない気がする僕の感じた違和感というのは、ちょうど方言で喋る映画を余所の土地の人が観ても全然気にならない部分に対して、土地の人が観ると違和感を感じるのと似たようなことだという気がした。

 僕にとっては、この疑似家族の生成自体がどうにも現実感を欠いていた。訳アリ夫婦の信代【本名:ようこ?】(安藤サクラ)と治【本名:祥太?】(リリー・フランキー)が棄てられたものを拾い集めて家族を作った動機を、子供を産めない身体であることや独居老人の遺族年金狙いだけで了解するのは途轍もなく困難で、治が亜紀【別名:さやか】(松岡茉優)に冗談めかして語った“こころ”でも、微かなためらいとともに亜紀が治に返した“おかね”でもない何かを想定するほかないのだが、それを映画作品から僕が受け取ることはできなかった。

 唯一つ、亜紀の源氏名を聞いて軽く怯みと感心を見せていた祖母(樹木希林)が両親から金を受け取っていたと知らされて、それが目的だったのかと疑念を抱いていた亜紀に対して、その金には一切手を付けずにヘソクっていたからこそ、3万円×5袋=15万円(だっけ?)を彼女の死後に見つけて訳アリ夫婦がはしゃいでいたことを教えてやりたいと思った。彼女のヘソクリは血の繋がらない孫娘の亜紀のためにしていたことだと僕は解している。

 ちょうど海街diaryの父親のごとく余所の女の元に走って家を出た亡夫の月命日に訪ねて貰っていた金封を開いて「今回も3万」と呟いていたのは、そういうことなのだろうが、遺族年金が入るのだから離婚はしていなかったはずで、元々の訪問が何だったのか腑に落ちなかった。亜紀の両親は真顔で留学中だと受け止めていたようだから、彼女が家を出てからそう何年も経ってはいないだろうし、妹が高2ということからすれば、十八、九歳ということだろう。亜紀が祖母と知り合う縁は、義理の祖父の死による血の繋がらない(であろう)祖母の訪問以外に考えにくいから、だとすれば、二人が馴染み親しんだ期間はやたらと短いはずなのだが、とてもそうは思えなかった。

 元々の訪問は、カネを求めてのものではなく、あたかも魂萌え!の関口敏子(風吹ジュン)が亡夫隆之(寺尾聡)の愛人伊藤昭子(三田佳子)の元を訪ねた敵愾心のようなものかとも思ったが、敏子は隆之が死ぬまで十年にも及ぶ不倫を知らなかったけれども、彼女の場合はそうではないわけだし、いつ頃の何ゆえのことか腑に落ちなかった。もしかすると、亡夫の家の相続関係で片付けないといけない問題が生じて遺産分割協議に呼び出されたのかもしれないが、そのあたりへの言及はいささかもなかったように思う。また、疑似家族の犯罪が露見したにも関わらず、盗品の釣り竿が押収されずに残されたままだったり、前科者の治が何ら咎めを受けていないように見えるのは、いかにも解せなかった。

 治が信代の求めで祥太(城桧吏)を面会に連れて行っていた場面でも、“万引き家族”のもとで「学校などというところは頭の出来の悪い奴が行くところだ」と教えられて育っていた祥太が、事件発覚後、6人入所が標準とされる地域小規模児童養護施設から小学校に通うよう措置されることになった件について、警察も行政も治を祥太から切り離そうとすることはあっても、居場所を教えるはずがないのにとの不審が湧いたが、これについては、祥太のほうから治に連絡を取っていて、治が祥太の連絡先を知っていたから信代の要請に応えることができたのだろうと了解した。

 祥太は、妹ゆり【本名:樹里?】(佐々木みゆ)を庇うためとはいえ、やはり自分が下手を打って捕まったことが露見の端緒になっていることに後ろめたさがあって治に連絡を取らずにはいられなかったろうと思う。祥太は、そのような子として造形されていた。「僕を置いてみんなで逃げようとしていたのはホントなの?」と問うた祥太に、そのことを誤魔化さずに治が伝えたのは、信代の意向を汲んでのことだったろうと思われるが、そのことも察したうえで、それに応えるかのように「僕も、ほんとはわざと捕まったんだよ」と話していたように思う毅然とした聡明さは、誰も知らないの明(柳楽優弥)を偲ばせるものがあった。この場面は、たとえ現実感を欠いていたとしても違和感はなく、とてもいいものだったように思う。

 少し前に報じられていた万引きを幼い我が子に指南する親の事件でも、捕まった息子は父親を庇い続けているとのことだったような気がする。もしかすると、本作に描かれた治のように子供にとっては、よき父親だったのかもしれない。だからといって、この疑似家族の生成自体には現実感を覚えられるものではなかった。

 祥太の庇った妹がマンションの通路の塀から首を延ばして伸び上がったラストショットで彼女が観止めたのは、祥太だったのか、治だったのか、はたまたそれ以外の動きだったのか、いかにも是枝作品らしい思わせぶりなカットだったが、いずれにしても僕は、赤のヴィッツ習志野ナンバー(だっけ?)との手掛かりを辿って祥太が探すことはないように思っている。




参照テクスト:ケイケイさん(「映画通信」)とのmixi談義編集採録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966935958&owner_id=1095496
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/18090201/
by ヤマ

'18. 6.21. TOHOシネマズ4



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