『0.5ミリ』
監督 安藤桃子


 196分は少々長い気がするのだけれども、なにぶん地元ロケなので「ここはどこだっけ?」の連続で、飽きることがなかった。僕の観た感じでは、旭、神田、横浜、種崎あたりが多かったような気がするが、いわゆるランドマーク的なものは一切登場せず、地元言葉も封じられていた。ご当地映画とは正反対のものを撮るんだという強い意志が感じられるとともに、そのロケハンセンスの良さに感心した。かつて大木裕之監督の作品を観て、彼が撮った高知の風景に強く刺激されたことがあったが、そのときのことを思い出した。

 物語的には少々拵え感が強すぎる気もしたが、山岸サワのキャラクターがとても鮮烈で、魅力があって、気に入った。サワの対人感覚というか人との距離感の絶妙さを演じ得たのは、安藤サクラならではのもののように感じられた。「0.5ミリ」とのタイトルは対人感覚としての距離感を指したものではなく、元教師らしい真壁義男(津川雅彦)の台詞にあった「生の痕跡」としてのものだったが、作り手は、近しい距離を示す単位をタイトルに掲げることで、人との距離感を連想させるよう確信的に仕掛けていたような気がする。

 食事や人の世話が丁寧にできることの労働的価値の高さとそれが労働的価値以上のものを生み出すことを、まさしく目の当たりにしてくれるような作品だったように思う。サワという女性が“愛情”によってそれを発揮しているのではなく、“スキル”として為し得ていることを描いていたのが実に斬新だった。そのうえで、人は、人と関わるなかで自ずと“愛情”が育まれ、交錯していくものであることを、いささか過激に挑発的に描き出していたように思う。関わりが疎かになれば、家族とても“愛情”で繋がることが難しくなる一方で、たとえ生活への闖入者であっても、命の根本に繋がる部分での関わりを共にすれば、わずかにカラオケボックスでの一夜凌ぎであっても人は人に対して“愛情”と呼び得るような感情が幾ばくかの名残惜しさとともに湧いてくるのは、何も孤独で居場所のない老人に限った話ではないのだろう。

 また、人が心に抱く欲望や夢ということについても、それを抱くことと叶えることが単純に等号で結ばれるべきものでもないことが示唆されていて、さりとてそれに明白な是非をも与えられないところがあるのが人間という存在の厄介さであることも湛えた形でよく伝わってき、大いに感心した。何が良きことで何が悪しきことなのかは、少なくとも外形的に即断できるような類のものではないことは間違いない。

 そんななかで人間という存在にとっての絶対善としてあるのが「丁寧な食事と人の世話」ということなのだろう。本作のなかで、えらく料理を丁寧に扱っていることには、やはり安藤監督の母親の影響があるのかなと思いながら観ていたら、エンドロールで、フードスタイリストとして安藤和津の名がクレジットされて得心した。義男爺がサワを連れて観に行った映画が奥田瑛二の初監督作品『少女』['01]だったりすることも含め、外形的にも内容的にも、徹頭徹尾、家族映画だったように思う。

 場面的には、元自動車整備工の茂爺(坂田利夫)から貰った117クーペに凭れて片岡マコト(土屋希望)と二人で、それぞれの受け継いだ遺産と遺品を手に、声をあげて泣くシーンでは、そこで泣くのはサワのキャラではないような気がしたが、映画作品としてはハイライト場面だろう。また、認知症が進んで来ていて、同じ言葉を繰り返す義男が戦争について語る繰り返しが津川雅彦の大写しの表情も効いて、とても印象深かった。

 人の生と老い、家族について、種々の想いを触発してくれるだけの力のある作品だと思う。四日後に最終日を迎える1ヶ月限定の特設劇場の受付で動員数を訊ねたら、グロスでは計算していないとのことで教えてもらえなかったが、1日平均2~300人くらい入ってるとのことだった。175席での1日3回上映だから、上々の興行成績でいささか驚いた。観客動員が好調で上映期間が1ヶ月延長されてクリスマスイヴまで延びたようだが、そうなると1万人以上が観ることになる計算で、本当に凄いことだと思った。

 劇中で『少女』を上映していた映画館は高知東映跡だったが、その映画館の椅子を運んで据えた特設劇場は、あたご劇場や美術館ホールの椅子より断然座り心地よくて快適だった。間もなく解体されるのかと思うと、勿体ないような特設劇場だった。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1936252433
by ヤマ

'14.11.20. 城西公園野外ステージ「0.5ミリ」特設劇場



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