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『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(Le Charme discret de la bourgeoisie)['72] | |||||
監督 ルイス・ブニュエル | |||||
僕が最初に観たブニュエル作品は、二十四歳のときに観た『忘れられた人々』['50]なのだが、映画日誌を綴っている作品だけでも『皆殺しの天使』['62]、『自由の幻想』['74]、『哀しみのトリスターナ』['70]、『昼顔』['67]とあって、お気に入りの作り手だ。本作は今まで観たことがなかったから、最初に20世紀フォックスのロゴが出て来て驚いたが、同年のアカデミー外国語映画賞を受賞しているとのこと。でも、僕としては、ブニュエル作品にしてはシャープさに欠ける気がしないでもなかった。 だから、観賞後の茶話会でも「あまりピンと来なかった」と洩らしたのだが、併せて映画作品としては、時代的な背景を思うと、政治の季節である'60年代を過ぎて“革命”に対する幻滅感が広がりつつあった時代を受けてのもののような気がしたとの感想も述べた。世界の近代の訪れを先駆けたフランス革命は、別名ブルジョア革命とも資本主義革命とも呼ばれるものだが、革命によって実権を得たブルジョワジーの有り様が、まさに革命によって倒された貴族社会と寸分違わぬ態であることをシニカルに寓話的に映し出していたからだ。 貴族にとって何よりも大事だった社交界は、ブルジョワジーにおいても同様で、狭く閉ざされた交遊のなかで日々の食事会が繰り返され、顔見知りの間での寝取り寝取られのコキュが繰り広げられているわけだ。そして、夜毎の夢見としてエスタブリッシュメントのポジションを失う悪夢に見舞われて安眠を得られないでいる姿が描かれていたように思う。 人間が人間である限り、貴族であろうがブルジョワジーであろうが社会構造に変わりはなく、さすれば、プロレタリア革命を成し遂げたところで、ブルジョワジーにプロレタリアートが取って代るだけで、贅沢な食事を求めつつ安眠すら得られない上流階級が廃れることはないことを当時のソビエトなどの姿を観つつ、描き出した作品だったのではなかろうか。 そのブルジョワジーの不如意と怯えを描き出していた点については、いかにもブニュエルらしい機知とは映るものの、その表現スタイルが三十余年前に観た『自由の幻想』などには全く及んでいないような気がしてならなかった。中身に文句はないのだが、描き方や運びにキレがないというか、ブニュエル作品にしては凡庸じゃないかとの思いが湧いたのだ。やはり夢オチのような描出が幾度も繰り返されると、興が覚めてくるような気分に見舞われるのが映画というものだと思う。本作へのアカデミー賞授与は、この作品に対してというよりも、ブニュエルに対してとの意味合いの濃い授与だったのではないかという気がした。 茶話会では、ブルジョワジー夫婦六人が田園地帯の道を手ぶらで歩くシーンの繰り返しも話題に上ったが、僕は、日本のテレビドラマ『Gメン'75』みたいじゃないかと何だか可笑しかった。それはともかく、この場面の作品的な鍵は“手ぶら”にあるような気がする。有産階級とも訳されるブルジョワジーなのだが、一個の人間として観れば、何も得ておらず持ってもいないわけだ。そして、人間の手というものは、何かを持つ【所有】のためにあるのではなく、誰かと繋ぐ【連帯】のためにあるものなのに、どの夫妻とも手を繋いでいない姿を象徴的に示していたように思う。 面白かったのは、一緒に観賞したメンバーの一人から出された、そういう分析が求められるような映画が果たして興行的に成功し得るのかという問題提起だった。確かに今や、漢字もろくに読めず児戯に等しい野次を国会で繰り返す人物たちが国の首脳を務めて高い支持を集め、歴代内閣の最長在任記録を更新するに至る程に“反知性主義の蔓延っている時代”だ。ブニュエル作品が支持されるとは思えないのも道理だと改めて思った。 これは何もわが国に限った話ではなく、世界を覆っていることで、最早わが国の本家とでも言う他なくなっているアメリカにおいても既に顕著になっている現象なのだが、そう思うと、本作の最初に20世紀フォックスのロゴが出て来たことを改めて感慨深く想起した。当時はハリウッド配給で、それなりに興行的成功を収めることができたからこそ、アカデミー賞の受賞が適ったわけで、やはり今では考えられなくなっているように思う。 | |||||
by ヤマ '19.12.27. 高知伊勢崎キリスト教会 | |||||
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