『海街 diary』
監督 是枝裕和


 いい映画だった。そして、とても美しい映画で、海猫食堂を閉めた二ノ宮さち子(風吹ジュン)の言葉にあった“綺麗なものを綺麗だと感じることのできる喜び”を与えてくれるような作品だった。今のご時世に、絵空を感じさせることなく、かような品位とユーモアを湛えた物語世界を造形していることに感銘を受けた。

 長女 幸(綾瀬はるか)の不倫相手との関係にまつわる難儀な話が元で、次女 佳乃(長澤まさみ)が家から外に逃げ出そうとしたとき、四女の中学生すず(広瀬すず)が言った「幸姉のことについて三人で話したいの」という言葉に、佳乃が「めんどくさいなぁ」と言いながら戻ってきた台詞が効いていて、おばあちゃんがよく言っていたという「生き物というのは、めんどくさいものだ」とも呼応し、さればこそ生き物は掛け替えなく、その存在や行状は、単純に是非の問えるものではないことが浮かび上がってくる物語世界になっていた気がする。

 この“生き物の実存とも言うべき、めんどくささ”というものを排して、判りやすさや単純さを“効率”と称して求めることは、まさに生き物であることから遠ざかることに他ならないと静かに訴えかけてきていたように思う。そして、生き物であるが故の美しさ、悲しさ、愚かさ、健気さを、シラスの釜茹でやら竹輪カレー、アジフライの香りが匂い立つような、あるいは満開の桜トンネルの花弁やカマドウマが肌に触れるような、実にセンシティヴでデリカシーに富んだ筆致で瑞々しく描き出していて、大いに感じ入った。また、すずが洗濯物を干しながら姉のブラジャーを摘んで「おっきぃ」と呟いたのがどちらの姉のものとも知れなかったりしたことや、浜田店長(池田貴史)と三女 千佳(夏帆)の掛け合いやら姉妹の会話などの醸し出すユーモアに、心和まされた。人が、生き物として得ることのできる掛け替えのなさというのは、まさしくこういうところにあるのだろうという気がする。

 仙台、山形を転々として鎌倉に辿り着いた浅野すずのみならず、都市銀行を中途退職して信用金庫に転職しているらしい坂下課長(加瀬亮)の言葉からも窺えたように、そして、三女 千佳(夏帆)が求め、すずが偲んでいたように、人が生きていくうえで最も必要なものは、やはり“居場所と記憶”なのだということが、改めて伝わってきた。四人姉妹のなかで、抱えている屈託が最も小さいように映っていた三女が、四姉妹のなかでは最も両親についての記憶の乏しい娘であったのは、その分だけ幼時から鍛え上げられていたからだと言えなくもないような気がした。

 それにしても、しっかり者の長女の役を綾瀬はるかに配していたのが意外だったが、思わぬ適役で感心した。胸の大きさと言い、面立ちの醸し出すイメージと言い、平成の原節子なのだということに気づかせてもらったように思う。山形で、すずに一番好きな場所を案内させて話を聞いたときに察した父親の鎌倉についての思いを見せられる場所に異母妹を案内して、二人で大きな声を出した際に、先に発した幸が「お父さんの馬鹿!」だったことに対して、すずは「お母さんの馬鹿!」だったことに意表を突かれたような表情を浮かべつつ即座に受容していた慈母のような面持ちが印象深かった。そして、まさしく四人姉妹の父親は、こういう男だったのだろうなということを偲ばせていた小児科医(堤真一)の少々苛立たしく思える悪意なき存在感が効いていたように思う。対話がよく練られ、場面演出がよく利いた、なかなか味わい深い滋味に富んだ作品だったような気がする。大したものだ。

 すずにとっての父のシラス丼、佳乃にとっての海猫食堂のアジ南蛮漬け、千佳にとっては、七年前に亡くなったと思しき祖母の竹輪カレー、そしてもしかすると、風太(前田旺志郎)にとっての山猫亭のシラストースト、香田家三姉妹を置いて十四年前に家を出たらしい母(大竹しのぶ)にとっての祖母の梅酒に当たるような食べ物は、僕にとって何だろうなどと考えてみた。




参照テクスト:「吉田秋生 著 『海街 Diary ①~⑤』<小学館 フラワーコミック>」を読んで


推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/ebc2a41cb5db5eef39f39fdb96564cea?fm=rss
by ヤマ

'15. 7.11. TOHOシネマズ2



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