大映創立75年企画“大映女優祭”

『赤線地帯』['56 監督 溝口健二
『浮草』['59 監督 小津安二郎
『鍵』['59 監督 市川 崑
『破戒』['61 監督 市川崑
『女は二度生まれる』['61 監督 川島雄三
『しとやかな獣』['62 監督 川島雄三
『越前竹人形』['63 監督 吉村公三郎
『太陽は見た』['70 監督 井上芳夫

 新春、大阪のシネ・ヌーヴォで26作品一挙上映となっていた大映創立75年企画の“大映女優祭”が半年遅れながらもウィークエンドキネマMで開催された。こちらは一挙21作品と5作品減っているが、大阪上映にはなかった『女は二度生まれる』がリクエスト投票第3位ということで加わったほか、『赤線地帯』『最高殊勲夫人』『妻は告白する』『しとやかな獣』『女系家族』『越前竹人形』『清作の妻』『華岡青洲の妻』『濡れた二人』と若尾文子の出演作が大挙して加わり、大阪同様に『浮草』や『婚期』『お嬢さん』までも上映されるラインナップは、まるで若尾文子映画祭といった様相を呈していた。十六年前の美術館特別上映会“増村保造映画祭でも特段の位置を占めていた彼女は、数多の大映女優のなかでも最高殊勲女優に当たるような気がする。
 また、今回のラインナップでは渥美マリが大阪での『でんきくらげ』から『いそぎんちゃく』と『太陽は見た』の2作品に増えている一方で、予告編でかなり強く印象づけられる関根恵子作品が1本もなくなっていたのが少々残念だった。そして、市川崑監督作品が大阪での『ぼんち』から『破戒』と『鍵』の2作品に増えていることも目を惹いた。

 13日の5本立ては一日券3000円で観たのだが、『浮草』三十年前に自分たちで上映して以来の再見で、『女は二度生まれる』十年前の県立美術館「サヨナラだけが人生だ-川島雄三映画祭で観て以来の再見となった。

 大映映画の特集ながら、松竹の小津、東宝の川島による作品を並べて色とりどりの若尾文子が印象づけられる四本がずらっと並んでいたものだから、とりわけ若尾文子映画祭のような趣だ。色香たっぷりなのに無垢な明るさを放射している点でまるでモンローのようだった。対照的な京マチ子との共演作が二本(『浮草』『赤線地帯』)配されているだけに余計に際立つ。『しとやかな獣』の子持ちシングル幸枝だけは少々趣きの異なる女性像だったが、彼女が演じると、したたかな獣(悪女)も、しとやかな獣に映ってくるからコワい。

 久しぶりに観た10:30からの『浮草』では、オープニングの灯台と一升瓶を並べたカットが端的に示していたように、実に絵画的に鮮やかなショットの数々に観惚れながら、家族はつらいよ2のときに「カメラが主張しない撮り方」という話を撮影監督の近森眞史がしていたことを思い起こさせられた。彼の弁に沿った言い方をすれば、本作の宮川一夫の撮影こそがまさしく「カメラが主張する撮り方」の御手本とも言うべきものになるのだろう。
 よさこい節とともに訪れた駒十郎一座が、よさこい節とともに解散し、途中♪南国土佐を後にして♪も出てくる本作に、昭和三十代半ばのよさこいブームの凄さを再認識していたら、続く12:55からの『しとやかな獣』でもよさこい節が出て来て、昭和三十七年になっても衰えていない根強さに、僕の生まれた昭和三十年代をある種、象徴するような歌だったのだなと恐れ入った。

 この『しとやかな獣』がその日観た5作品のなかで最も面白く感じられたのは、もちろん初見だったということもあるのだろうが、戦後日本の抱えていたアイデンティティ・クライシスというか、鬼畜米英から一転アメリカナイズに向かった日本人のメンタリティ崩壊のようなものが実にシニカルに且つコミカルに捉えられていたからだろう。とりわけ、よしの(山岡久乃)や幸枝(若尾文子)の使う言葉遣いの“しとやかさ”とは真逆の“したたかな猛々しさ”がかなりトンでいて、米軍機と思われる三筋の飛行機雲のうちの最下段に位置していたものが失墜していくショットが妙に意味深長に感じられた。

 15:00からの『赤線地帯』でも、売春防止法により国が営業規制を掛けてくることに対し、進駐軍が来たときには日本女子を守るための防波堤としてなどと煽てたくせに、と訪れた巡査に辰子(沢村貞子)が文句を言っている場面から始まるなど、むかしの映画には娯楽性のなかにもきちんとスパイスが利いていて、社会性を備えた大人の味わいがあると改めて思った。

 若尾文子の魅力という点では、この4作品のなかでの一番はやはり16:50からの『女は二度生まれる』だったような気がする。

 19:00からの『破戒』では、最後の猪子蓮太郎(三國連太郎)の妻(岸田今日子)の場面が印象深い。原作は高校時分に読んだきりだが、瀬川丑松(市川雷蔵)の父(浜村純)のエピソードにまるで覚えがなく、凶暴な牛(差別の象徴?)に刺されて死ぬ場面なんかあったっけとオープニングシーンに驚いた。

 帰宅後、三十年前に綴った『浮草』の映画日誌を読んでみたら、自分の書いた日誌ながらなかなかいいことを書いていて、我ながらちょっと感心した。


 15日に観た『太陽は見た』は、タイトルからして示しているように『太陽がいっぱい』'60]を換骨奪胎した作品で、渥美マリと峰岸隆之介【峰岸徹】で見せるヨットの場面がなかなかよかった。
 ラストにおいて思わぬ形で白日の下に晒されることになる“決定的な証拠”は、かの名作の示した実に映画的で鮮やかなものに比べてあまりに苦し紛れで、ほとんどギャグかと思うほどで失笑したが、ここをやり過ごしては換骨奪胎した本家に相済まぬとばかりの覚悟のようにも感じて、なかなか潔いじゃないかと思ったりもした。
 また、ちょうど『しとやかな獣』'62]で観たばかりの伊藤雄之助とルノアールもどきの絵が同じようにセットで出て来ているのが妙に可笑しかった。両作には8年の開きがあるのに、大映のスタジオでは、ずっと使い回されてきた絵なのだろう。


 16日に観た『越前竹人形』は、芦原温泉の遊女から竹細工職人喜助(山下洵一郎)の元に嫁いだ玉枝を演じた若尾文子をひたすら見せる映画なのだが、喜び、戸惑い、憂い、愁い。怒り、懊悩、安堵、苦悶、さまざまな女の顔を役柄設定と同年齢の二十九歳で演じている彼女に、二人の子持ちである僕の娘よりも若いとはとても思えない貫禄と色香を覚え、圧倒された。
 原作者である水上勉の小説は、一冊も読んだことがないように思うが、映画化作品や舞台化作品を通じて抱いている暗さと救いの無さが好みではなく、本作においても、結局は、喜助と玉枝を一度も交わらせぬままに終える酷薄さに、妙に味の悪さが残るようなところがあった。原作でもきっとそうなのだろう。
 運びのうえでは何だか、玉枝の昔を知っていて「おその」と呼んでいた忠平(西村晃)のみならず、渡し舟の船頭(中村鴈治郎)からも狼藉を加えられていたようで、横たわった船べりから川面に流れる長い黒髪の拡がるさまがモノクロ画面効果で、彼女が孕み子とともに流した血のようにも見え、なかなか鮮烈だった。


 18日に観た、老いに抗う妄執爺さん(中村鴈治郎)の『鍵』では、京マチ子【妻 郁子】の湯あたりして火照った肌の桜色の美しさに観惚れた。この妻がなかなか一筋縄ではいかない計り知れない女性像で、夫に付き従う貞淑な妻として観られることを自他ともに求め振る舞うと同時に、従順とは真逆の策略家としての顔を見せつつ、何を企んでいるのかはまるで知れない不可解さがあったように思う。夫の病院通いを察知して訪ねた際には、医師(浜村純)から歳離れた妻の性的欲求不満を看破されるような素朴さも窺わせていて、いっそう不可解だった。
 青年医師木村(仲代達矢)への執心は、夫の策謀に乗じた自らの欲求だったように思うが、母親を妬む娘敏子(叶順子)への当てつけも感じさせ、その心理には何とも解しがたいものがあったように思う。敏子も、母親と同様に、なかなか測り難い女性像で、木村への向かい方も不可解だった。そのうえで、最も不可解だったのが剣持家に仕える老女はな(北林谷栄)で、最後の顛末は警察ならずとも全く釈然としないものだった。
 年齢によらず、女とは不可解な生き物だとでもいうような造形なのだが、男がそのような人物造形をしたがるのは分からぬでもないながら、市川作品なれば、脚本には和田夏十が加わっているわけで、妙に腑に落ちなかった。
 ショット的には、木村との逢引に外出する郁子が夫と言葉を交わし別れた後で、バッグからイアリングを取り出して付けた具合を手鏡で確認する際に、遠くから夫が覗いている姿を鏡のなかに見つける場面が印象深い。
 心の内を表に出さない面を付けたような表情を京マチ子と仲代達矢が殊更に印象づけていたことで、何とも不気味で倒錯的な作品にはなっていたが、剣持を含め、登場人物の誰ひとりに対しても得心がいかないままだった。
 
by ヤマ

'18. 6.13.~18. ウィークエンドキネマM



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