『破門 ふたりのヤクビョーガミ』
監督 小林聖太郎

 実に面白かった。無類の映画好きの友人女性から勧められながらも観遅れていた作品なのだが、終映間際に滑り込んで観逃しを免れることができてよかった。台詞がとてもよく練られていて、その台詞をまた役者が絶妙の間合いと呼吸で交わすことで生まれる味わいになかなかのものがあったように思う。セトウツミのように、その掛け合い部分を特化して際立たせるのではなく、また運命じゃない人ほど緻密ではないにしても、巧妙な展開の意外さと符合によって、観るものを楽しませてくれる。そして、両作に共通する妙味溢れるバディムービーとして本作も成功していて、『探偵はBARにいる』シリーズやまほろ駅前』シリーズ以上に、二蝶会のヤクザ桑原の愛唱する♪There's No Me Without You♪(お前なしではいられない)な関係が微笑ましい。

 何と言っても桑原を演じた佐々木蔵之介がいいのだが、桑原が慕う若頭の嶋田(國村準)の兄貴分の遺児にあたるサバキ屋の二宮を演じた横山裕もよく健闘していたような気がする。お前は何でも他人事やなぁと桑原からたしなめられる“密接交際者”の二宮が俺は親不孝を3Dプリンターにかけたようなモンやなぁと自嘲する場面での母親(キムラ緑子)との遣取りには、従姉妹の悠紀(北川景子)との緩~い関係の味わいとは対照的に、泣かせるものがあったように思う。

 久しぶりに訪ねてきてから間もなしに再び現れた息子から頼られたのが20万で何とか応えてやれる金額だったことに安堵した母親の零すそんなん、先に言うてくれてたら、コロッケぐらい揚げといたのにという台詞に、おそらく映友は痺れたに違いない。「お寿司ぐらい取ってたのに」ではないところがミソだと思う。訊ねたら食事はまだだという息子に有り合わせで食べさせながら、前もって知らせがあれば構えておいたというオカズがコロッケであることが示すように、決して20万円がはした金ではない暮らし向きは家の佇まいからも明らかなのだが、親は子どもから頼られてナンボやと思っていて、久しぶりに訪ねてきたときの様子に虫の知らせでも感じて用意しておいたのではないかと思われる形で奥から取り出してきた。構えていたことを気取らせたくないから敢えて裸金で済まないねと言いながら渡していたような気がしたが、とにかく息子にはたとえ一手間でも自分の作ったものを何ぞ食べさせたくなるオカンを演じていたキムラ緑子がなかなかよかった。

 こういった形で、場面の設えや台詞の按配に対する練り上げが随所に施されているような気がした。それらが伏線的にあちらこちらで利いているから、観ていて実に愉しいのだ。映画好きを喜ばせるお金で幸せは買えないが、お金で不幸を追い払うことはできる。by ヒッチコックなどという『サイコ』(だったか?)の台詞もあった。

 いつの頃からか、僕はヤクザ映画を好まなくなっていて、時代劇として観ることのできる昭和初期とか戦後復興期から高度成長期にかけての時代のものでなければ、とんと食指が動かなくなっている。そのあたりの事情は、本作で二宮が繰り返し文句を垂れる“暴排法以後”の問題でもあるのかもしれない。製作興行サイドもその影響を受けていて、かつてヤクザ映画に求めていた暴力的カタルシスの部分は専ら不良の喧嘩映画に向けられ、はみ出し者のアウトローライフもヤクザではなく、その周辺のようなところに代償を求めるような形になっている気がする。アメリカでの公民権運動の高まりのなかで、かつてのようにインディアンと戦う騎兵隊をヒロイックに描く西部劇が製作できなくなった経過と似たようなものを感じる。人気シリーズだったらしいウシジマくんにしても、先ごろ第二作が公開された新宿スワンにしても、かつてのようなヤクザを主人公にした映画が製作しにくくなったなかでの闇金だったり、スカウトマンと思わざるを得ないような映画の造りだった気がする。

 それで言えば、本作もまたサバキ屋などという“密接交際者”とヤクザを破門される男を主人公にしているわけで、香港に向かう続編がもし作られたとすれば、その時点では主人公二人ともがヤクザではなくなっている。そのあたりを見据えての『破門』なのだろうと思った。段取り破門と言いながらも、桑原はなかなか破門を解いてはもらえないような予感がある。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20170206
 
by ヤマ

'17. 3. 1. TOHOシネマズ5



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