『まほろ駅前多田便利軒』
監督 大森立嗣

 人は映画を観るとき、そこに描かれているものを観るのではなく、自分の観たいものを観るのだというのは、少々映画を観重ねている人が誰しも思うことなのだろうが、それで言うなら、僕は、このところ人から必要とされ、求められることの意味について想いを巡らせているのかもしれないなと、ここ数日で続けて観た映画作品に出てきた三人目のハルを観ながら思った。

 最初のハルさんは二週間前に観た深川栄洋監督の『神様のカルテ』の栗原榛名、二人目のハルさんは一昨日に観た佐々部清監督の『ツレがうつになりまして。』の高崎晴子で、どちらも宮崎あおいが演じていたが、今日観たハルさんは、松田龍平が演じていた。
 『神様のカルテ』は、昨今のぞんざいな言葉遣いで物語られる作品にはない、主人公イチ(櫻井翔)の愛読する夏目漱石さながらのいささか古風な物言いがしっくりとくる品の良さが珍しく、ちょっと新鮮な映画だったが、医師というすぐれて技術的な重い職責を担う職業に就くなかで、患者と医療のどちらからの求めに応じる道を己が“なりわい”とするかに迷う青年医師の姿が、彼を取り巻く人々との交流や関係性のなかで描かれていた佳作だった。
 ツレがうつになりまして。は、『神様のカルテ』とは対照的に、自分が“誰からも必要とされない人間”であるとの思いに囚われる病に苦しむツレ(堺雅人)との関わりのなかで、大切に思う人に対する心の向き方という問題について、夫婦ともどもが学びと育ちを得ていく“人と人との絆の有難味”が沁みてくる作品だった。
 そう言えば、去年の暮れに観た、徳永えりが孫娘の春を演じていた春との旅の主題もそこにあったように思うし、その一年前に観た重力ピエロにも同じような主題が織り込まれていて、岡田将生の演じていた弟の名前がハルだったような気がする。

 人と人との関係を直接やり直すことは、とんでもなく難しいことなのかもしれないが、年の瀬の冬から翌年の冬まで、ちょうど一年の間に切り結んだ多田啓介(瑛太)と行天春彦(松田龍平)の関係は、中学のときの因縁を超え、互いの必要を感じ取りつつ、ひとたびの別離を経て再び共に寄り添うところに至っていたような気がする。「誰かに必要とされることは、誰かの希望になるということだ」という作中の台詞は、人に向けられたものではなく、チワワについてだったような気がするが、いわんや人においてをやということに他ならない。

 多田と離婚した妻との関係や、行天と親との関係は、多分やり直しが利かないものなのだろうが、相手から取り返すことはできなくても、自分のなかで取り戻せるものは、生きてさえいれば、必ずあるのだろうと思う。只それも、自分一人では出来ないことのような気がする。人は、やはり人間というだけあって、人と人との間によって生きる力を得ていく生き物なのだろう。

 まほろ駅前で便利屋を営む多田と、そこに居候を決め込んだ行天とは、一見したところ性格的には対照的でありながらも、傷ついた魂を抱え、堅実ながらも窮屈に縛られた会社組織のなかでは生きていけなくなっている点で、実は相通じている。人と人との間を結ぶことのできる魂というのは、やはりそういう“傷を自身の内に抱えながらも持ち堪え風化させないでいる人”のなかに宿っているものなのかもしれない。その抱えている傷自体の大小は、そう重要な問題ではなく、内に抱いた傷というものに対する想像力を涵養できる程度に抱えていれば大丈夫であって、むしろ大きな傷を抱えていると風化させずに持ち堪える作業自体が適わなくなり、人と人との間を結ぶ力の発揮など及ばなくなるように思う。そういう意味では、その人の器との応分加減において、風化させずに持ち堪え得るなかでの最大限の傷を抱えている人というものが、人に対して最も優しくなれる人間なのだろう。

 そういう意味では、中学の頃に行天の小指に負わせた傷のことを十五年以上経った今なお生々しく抱え続けていた多田以上に、自分が親から得られなかった“子供を欲し求める親の熱情と愛情”を叶えたい願いに応えて、レズビアン・カップルのために精子を提供するばかりか、入籍・離婚までしたうえで、一度もまみえることのなかった娘のために可能な限りの仕送りを続けていた行天の姿が何とも痛切だった。
 彼の送る養育費が必要不可欠ではないはずの、女医として働く凪子(本上まなみ)の元で育てられていることを知っていて尚というところが効いていて、彼が“子供の親”という問題について抱えていた葛藤と傷の大きさが偲ばれた。親から要らないと思われているとか、親の眼中に自分はいないと思わされるといったことに勝る心傷は、ないような気がする。多田にしても、妻の男遊びによる離婚だけであれば、退社して便利屋稼業に転じるほどのものを迎えはしなかったのだろうが、子供の生死に関わる問題が介在していればこその帰結だったような気がしてならない。生き物たる人間にとって、やはり親子の問題というのは、そのアイデンティティの根幹に関わることだけに、パートナー問題以上に重たい意味を持っているということなのだろう。

 それにしても、煙草を吸うシーンがやけに多く、また魅力的で、大いに困惑した。しばらく前に禁煙を果たし、ついぞ吸わなくなっている僕にして、なんだか無性に煙草を吸いたい気持ちにさせてきたのだから、映画としての力が備わっていた証なのだろう。アヒルと鴨のコインロッカーのときを彷彿させる瑛太も、『探偵はBARにいる』のとき以上の個性を造形していた松田龍平も、なかなかの嵌まり役だったような気がする。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20110430
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1718079883&owner_id=3700229
推薦テクスト: 「シネマの孤独」より
http://sudara1120.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-9b96.html
by ヤマ

'11.10.13. あたご劇場



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