『CUT』
監督 アミール・ナデリ

 全編120分の大半が、シネフィルの秀二(西島秀俊)が殴られては介抱され、また殴られることの繰り返しという映画だった。僕自身が直接殴られているわけではないものの、自分も自主上映活動に携わっていたりするから、かなり痛い作品だった。

 秀二がハンドマイクで街宣していた映画は今やシネコンで上映される金儲けのクソ映画によって葬り去られようとしていて、芸術であり娯楽である“真の映画”を守るための名作の上映の場さえ奪われているという主張は、僕の周辺でもよく耳にするものなのだが、ある種、狂信的とさえ映る過剰なまでの“映画愛”として描出されると、その思い込みの強さこそが却って広がりを損ねていることが指摘されているようで、何とも笑うしかなかった。

 なかなか鋭いと思ったのは、秀二の言う“真の映画”とは何ぞやという部分が、多くのシネフィルがそうであるように、具体に説明できずに既存の作品の例示でしか語れないでいることだった。本作でも100本の作品が列挙されるわけだが、その概ねに同意を示すことは、多くの愛好家において決して吝かでないことであろうものの、個別の1本1本については、例えば、タルコフスキー監督だと何故『アンドレイ・ルブリョフ』['67]であって他の作品ではないのか、デヴィッド・リンチ監督が何故『イレイザーヘッド』['77]で、黒澤明監督が蜘蛛巣城['57]なのかといったことに、快哉をあげたり異議を唱えたくなる者が必ずいるはずだ。つまり、例示は例示でしかないということだ。

 そのことを鮮やかに衝いてきているのが、殴られ屋として彼が晒される“暴力”の問題なのだろう。上映会場でのアンケートに残された意見に、こんな暴力シーンばかりの映画は上映すべきではないという意見のものがあったのだが、殴られ屋の秀二が見舞われていたのは、確かに腕力の行使ではあったけれども、果たして暴力なのかということになると見解の分かれる部分があるような気がする。

 暴力というものを実に単純に粗暴な腕力の行使として観る向きには、まさしく暴力に他ならないわけだが、腕力を行使するしないではなく、言葉であろうが、ゴダールがやってみせたような映像編集であろうが、札束で横面をはたくような振る舞いであろうが、受け手の感情を乱し逆撫で不快にする力の行使を以て暴力行為だとするなら、秀二の見舞われていたものは暴力ではないということになる。

 秀二の凄惨な有様をみかねて、残りの借金に対して返済期限なしの肩代わりを申し出たヤクザの正木(菅田俊)に対して、「金の問題ではない、貸してもらえるのはありがたいが、その分、殴られなければ意味がないのだ」と拒む秀二のこだわりが、シネフィルとしての映画に対するこだわりに重なって見えてくるところがミソだ。

 粗暴な腕力の行使を求めているのは秀二のほうであって、それによって彼の感情が損ねられ傷んでいるわけではない。むしろ、決して有り余る金を持っていそうにもないチンピラたちが毎日、何万円もの金をつぎ込んで秀二の求めに応じて殴っているのは、ある種、倒錯した愛情と理解によるコミットメントではないのかとさえ思えてくる。

 ことほどさように“真の映画”というものは“真の暴力”同様に、秀二が街宣で一言で示すようなシンプルなものではない。シネフィルたちは、本当に、真剣にそのことについて考えてみたことがあるのか? 安易に過去の作品群の存在に頼り、シネコンを非難するだけの“負け犬の遠吠え”をしているに過ぎないのではないか? せめて秀二のように、体を張ってみよと言われているような気がした。確かに、どうやら秀二は3,500万円の映画製作資金を、殴られ屋稼業を連日続けるなかで、思いがけなくも調達し、活路を開いたようだった。

 秀二の健闘ぶりに料金設定を1発五千円から勝手に八千円に釣り上げてやっていた陽子(常盤貴子)がなかなか良かった。もう四十路にあるはずなのに、とてもそうは見えず、ほとんど娘役の風情だったのに全く違和感がなかったことに驚嘆した。それにしても、拳闘がらみで女性が出てくるとなぜか“ヨーコ”になるのは何ゆえだろう。イラン人の脚本でもそうなるのは、共同脚本に日本人が参加していたからなのだろうか。それとも、日本映画に造詣の深いイラン人たちにとっても『あしたのジョー』は既に古典となっているのだろうか。

 フレデリック・ワイズマン監督の『福祉』['75]から始まった100本の最後を飾ったのは、オーソン・ウェルズ監督の市民ケーン['41]だった。映画が終わった後、友人から「ヤマちゃんのベストワンと同じやったね」と言われた。僕が自主上映活動を最も積極的に行っていた二十余年前に、取材などでベストワン作品を問われることが多くなり、その都度考えるのは面倒なので、それには『市民ケーン』と答えることにするよう決めたのだった。当時、概して年配者は天井桟敷の人々['45]を挙げ、若手は2001年宇宙の旅['68]を挙げるのが常としたものだったので、敢えて僕はオーソン・ウェルズにしていたのだが、今では両作よりも『市民ケーン』をベストワンとする向きが多くなっているような気がする。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/13070703/
by ヤマ

'13. 7. 6. 県民文化ホール・グリーン



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