『蜘蛛巣城』['57]
監督 黒澤明


 映画好きの先輩から「君ともあろう者がこれを観ていないのは許し難い」と託されたDVDで鑑賞した作品だ。三船敏郎演じる鷲津武時が矢ぶすまに晒される場面には観覚えがあるものの、全編を観賞するのはやはり初めてだと思ったのだが、さすがの格調に大いに感心させられた。

 霧立ち込める妖しの佇まいが異界との隣接に何の違和感も呼び込まない風情で、先ずはこの空間設定が効いていると思った。そして、近景の木立越しに疾走する馬を捉えたショットの迫力に、いったいどのようにして撮ったのだろうかと唸らされた。主題的にも構成的にも至ってシンプルだと思われる作品世界を二時間近くの大作にしているのだが、エピソードや説明を絞り込んだ骨太さが少しも損なわれずに、むしろ効果的に浮かび上がっていることに驚いた。

 二十代の時分に['85]を観て酷評しているのだが、かなり似た趣向の様式美に深く入り込んでいる本作が圧巻だったのは、作品の違いによるものか、僕の加齢によるものか、かくなるうえは『乱』を再見する必要があるかもしれないとさえ思った。僕としては、仲代達矢では補いきれない三船敏郎の個性あってのことだという気がしてならない。加えて思ったのが“道化と物の怪との違い”で、マージナルな存在としての道化という文化は、やはり西洋のものだろうという気がした。

 それにしても、猜疑心による疑心暗鬼が自滅をもたらす物語を観ながら、妻の浅茅(山田五十鈴)の罪深さというかタチの悪さに恐れ入った。魔物より恐ろしい魔性は、女性(にょしょう)のなかにこそあるとの作り手の思いが窺えるように感じられた。暗闇にすっと消えた浅茅が壷を抱えて戻ってきた次のカットでは、既に眠りこけている護衛兵の傍に壷が鎮座しているだけなのだが、恐らくは酒が壷に入っていたのだろう。迷い躊躇っている風情の夫を尻目に、唆すだけでなく先んじて事を進めていく強引さに凄みがあって、思い込んだら手のつけられない女性の怖さが滲み出ていたように思う。

 その後も、武時が主君を討ったことを察しつつ、後継者に武時が就くことを強力に後押ししてくれたと旧知の三木義明(千秋実)に対して恩義を感じていることを武時が口にすると、予言どおりに事を運べば我が子に城主の座が転がり込んでくる計算だけの話だと一蹴する浅茅は、主君暗殺を躊躇う武時が口にした主への恩義を一蹴したときと全く同じで、いささかのブレもない。彼女にとって、予言など本当はどうでもいいことで、所詮は口実でしかないことが予言を運命として受け入れていく態度とは真っ向から反する挑戦的な謀略へと夫を駆り立てる展開からも明らかで、そこにあるのは好機を逃さずに利得を貪ろうとする徹底的な打算として描かれていたような気がする。

 運命を受け入れることに怖気づいていた夫の尻を叩いて機を逃さず夫に城主の座に就かせようとしただけのものが予期せぬ妊娠によって、運命の受容に抗わせるような変化が訪れたというふうなニュアンスでは浅茅の妊娠が描かれていなかったように思えるところが、本作の浅ましき欲望のホラー色というものを強めていたような気がする。大したものだ。話にはよく聞く小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明の揃った脚本の力というものを実感することが出来たように思う。もし『乱』のときにも四人が揃っていれば、三船敏郎の出演を欠いても、あのようにはならなかったのかもしれない。それだけ橋本忍や菊島隆三の抜けた穴が大きいということだったのだろうか。
by ヤマ

'12.12.27. DVD観賞



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