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『市民ケーン』(Citizen Kane) | |||||
監督 オーソン・ウェルズ | |||||
実に magicalな映画である。息を飲むほどの凝縮力と牽引力とを持った映像、緻密でなおかつ大胆な構成力と深い人間洞察、そしてこの作品が四十七年も前に、然も若干二十六才の青年によって作られているという事実、その何れを取ってもマジカルという外はない。 この作品でウェルズは、他に抜きん出て秀でた力を持つ人間の孤独と不幸を描いている。ケインのそれは、圧倒的な財力であったが、それが筋力や運動能力、知能や才能であっても、突出していれば、同じ事が言えるようになる。即ちそれゆえに特別扱いされるということとそのために一般の人と同じ地平に立てなくなるということである。『アマデウス』(ミロス・フォアマン監督)のモーツァルトや『マリリンとアインシュタイン』(ニコラス・ローグ監督) の二人もそうだった。あらゆることが、周囲からはその秀でた力に引き寄せた形でしか受け取られず、それにばかり注目して人間としての理解や共感の眼差しで人が近づいてくることが稀になる。人は、自分と同等のものに親近感を持つのであるから、卓抜したものを持っていれば、そうなることは、むしろ当然なのである。数少ない素顔のケインを知る人たちというのが、学生の時分からの友人であったリーランドや後見人サッチャー、二番目の妻スーザン・アレクサンダーなどであるのは、興味深い。リーランドは、学生というケインの持つ力を余り意識しないでもいい時に関わりを持ったことのある人物だし、サッチャーは、ケインが力を持つ以前に後見をしていたのである。スーザンに至っては、彼が「あのケイン」であることを知らずに出会っている。つまり彼の卓抜した力以外の部分での彼との関わりがあればこそ、ある程度親しく付き合えたということである。しかし、ケインは、その彼らに対しても、自分がいつの間にか陥った、持てる力に頼った生き方のなかで身につけた対処の仕方で向かってしまう。そして、彼らをも失っていく。 卓抜した力というものは、その力を自覚すればするほどに、遠慮も躊躇もなくその能力を発揮するには、ある種の傲慢さに踏み入らずにはできなくなるものなのだが、そうして持てる力を堂々と使い、積極的に活用すれば、人からは、羨望と嫉妬とともに尊大だと責められやすく、使おうとしなければしないで、怠惰でだらしないと責められがちである。しかし、その何れの場合においても持てる者は、卓抜したものを持っているがために、抗弁の余地は認めてもらえない。実際、持てる者の側からは、もし持っていなかったらという形で、持たざる者の心情への想像の余地があるけれども、持たざる者の側からは、持てる者の持てるゆえの悩みや迷いを想像するのは、およそ困難だからである。しかも持てる者は、ケインがそうであったように、その持てる力に頼った生き方をしがちで、そのために気づかぬ内に実際に尊大な人間になってしまうことが多い。しかし、卓抜した能力を行使するために踏み入るある種の傲慢さは、本来、既成の枠組からの圧力や自身の畏れとの闘いの結果のやむを得ないものであり、そのことと人に対して尊大になってしまうこととは、直ちに同じことではないはずなのである。とは言え、頼るに足るだけの力を持ちながら、それに頼り切らない生き方をするのは、なかなかに難しい。だが、それこそが卓抜した力を持つ者が美学ないしはポリシーとすべきことで、それがなければ尊大さに至る陥穽から逃れ得ない気がする。 自身が卓抜した才能の持ち主であり、おそらく傲慢だとか尊大だとか言われることの多かったであろうウェルズにとって、そのやむを得ぬ傲慢さと陥りたくない尊大さというのは、似て非なるものとして自身の身近な問題であったと思われる。ケインが死に際して「rose bud」という言葉を残したのは、自分の人生は、あの六歳の時のとんでもない財力を身につけ始めた時から狂ってしまったんだという歎きなのであろうが、同時にウェルズの自身への戒めでもあったのだろう。監督第一作で『市民ケイン』を撮り、続く第二作『偉大なるアンバーソン家の人々』で名家の傲慢な長男を主人公にしているのも、若きウェルズがその問題を自身のものとして自覚し、こだわり続けていたからである。 | |||||
by ヤマ | |||||
'88. 5.13. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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