『天井桟敷の人々』(Les Enfants Du Paradis)['45]
監督 マルセル・カルネ


 24歳のときに観て以来の二十八年ぶりの再見となる。映画日誌を綴り始める前に観たから日誌は残っていないが、当時の日記に実に行き届いた完成度の高い作品。演技、描写、演出、構成、総てがしっかりしている上に、登場人物が皆それぞれに魅力に溢れている。僕としては、泥棒詩人ピエール・フランソワと役者フレデリック・ルメートルが気に入っている。などと記してあった。今観てもその印象は、全く変わらない。ギャランス(アルレッティ)やバチスト(ジャン=ルイ・バロー)以上に二人の人物像に味わいがあったような気がする。

 ラスネールを名乗り“親分”などとも呼ばれるピエール(マルセル・エラン)のみならず、モントレー伯爵(ルイ・サルー)以外の主要人物すべてが、言うなれば“天井桟敷の人々”たる階層ということになるのだが、その彼らの持てる“自尊心”の在り様を見事に造形していて観応えがあったからだろう。古着商ジェリコ(ピエール・ルノワール)の台詞にあった「メデューズ号の筏」からも、原題には“神の視点から地上界を見渡しての未熟な人間たちのさまざまな生き様”といったニュアンスが窺えるのだが、原題の直訳ではない邦題のほうが、本作の持ち味である“特権的な立場にある強者たる伯爵のプライドと賤業者の誇りの対照”が非常によく利いて、優れているような気がする。

 19世紀当時の貴族の誇り高さのシンボルとも言うべき“決闘”に対し、殺人も厭わぬピエールが「あんなもの、俺は絶対にやらない」と言い、ギャランスが伯爵に「あんな年端もいかない青年に申し入れるのは、勝てることが分っているからでしょ」というようなことを言うのが痛烈だ。当世の格差社会における“競争原理による公平”などというものが当時の貴族文化の決闘と何ら変わらないことに今更ながらに思い当たる。モントレー伯爵の誇りにしても愛にしても、天井桟敷の人々たちが体現していた誇りと愛からすれば、そういう点で真にみすぼらしい限りなわけで、二十八年前に観たときに強く惹かれたのがピエールとルメートル(ピエール・ブラッスール)だったというのは、取りも直さず、そういうところを感知したからなのだろう。

 ギャランスとナタリー(マリア・カザレス)の“決闘”にしても、ボディブローを利かせた歳月の重みを“お忍び”と“子供”によって果たしつつ、相対しても互いには相手への非難も罵倒も交わさずにむしろ非礼を詫びる言葉と己が想いの表出のみに留める品性というものが、伯爵の得手としていた“命を奪う一瞬を競り合う決闘の粗暴さ”とは対極にあったように思う。
 『キスより簡単』ではないが「恋なんて簡単よ」と挑発したギャランスに、キスまでが遠い「僕の愛し方」を押し付けた後に、五年の歳月を経て「キミが言ったとおり恋は簡単だった」などと漏らすバチストは、恋愛においても婚姻においても、言うなればダメ男であったわけだが、その未熟さこそが彼女の心を捉え、彼女にずっと想いを寄せ続けさせていたところが“不可思議な女心の妙味”というところなのだろう。だが、そのことを思い知らされて、激しい嫉妬に駆られたと率直に告白するルメートルの自尊心の在り様は、「おかげで僕はオセロを自分なりに演じられる自信がついた」という謝辞にして締め括った台詞とともに、強く印象に残った。モントレー伯爵の誇りよりも遥かに深いところにあり、大いに共感を覚えた。
 また、ピエールが名優となったルメートルを伯爵との決闘から救う行動に出たことにも、恩義よりはピエール自身の自尊心の発露としてルメートルを死なせるわけにはいかないとの思いが強く感じられた。すべからく自尊心というものは、彼ら“天井桟敷の人々”のような形で発揮したいものだ。ギャランスのモントレー伯爵への臨み方にも、そういうところが強く窺えたような気がする。

 この作品は、二十八年前に観た当時は確か、キネ旬の発表していた「日本の映画人が選ぶオールタイムベストテン」の第1位に選出されていたように思うが、映画生誕百年ということで盛り上がった1995年は、第5位に下がり、キネ旬創刊90周年記念だった昨年は、9作品同位の第10位にまで後退していた。隔世の感がある。
by ヤマ

'10.10.15. TOHOシネマズ8



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