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『ポエトリー アグネスの詩』(Poetry) | |||||
監督 イ・チャンドン | |||||
人生は、途方もない過酷さと隣り合わせにあるものなので、こういう作品を観ると、大禍なきままに終えられる人生の幸いということの掛け替えのなさが沁みてくる。僕自身は、まだミジャ(ユン・ジョンヒ)ほどの年齢にあるわけではないのに、既に気分的には余生感覚のほうが強くなってきているだけに、高を括ってるんじゃないぞと冷水を浴びせ掛けられたように感じるところもあった。 本作の骨格は、66歳にして途方もない事態に見舞われたミジャが、16歳にして途方もない事態に見舞われて命を絶ったアグネスの生を、図らずも見つめずにはいられなくなる物語だったように思う。そして、教会、学校の理科準備室、アグネスの家、畑、彼女が身を投げたと思しき橋、水死体となって流れた川というふうに、アグネスが身を置いた場所を訪ね歩き、じっと見て感じることで得たものが、何とも痛切極まりなかった。それこそは、ミジャの通う文化教室の詩作講座で、講師詩人が一万回見ていても一度も見ていないに等しい林檎に喩えて語っていた、言うなれば“実相”ともいうべきものだったのだろう。報道メディアなどが表面をなぞり、人々が無関心に見過ごしていくだけに終わる事件に目を凝らして立ち入れば、詩の言葉も容易には太刀打ちできない魂の震えがあって当然なのが、人の生というものにほかならない。そのことを作り手が語っていたような気がする。 入浴介護サービスの前にバイアグラを服用した要介護老人の会長(キム・ヒラ)の囚われていた「死ぬ前にもう一度、男になりたい」との妄執にも、アグネスを死に追いやった少年たちの輪姦にも、ともに殆ど悪意もないまま欲望に突き動かされてのことだという実情の透けて窺えるところが、悲しく哀れでやりきれない。16歳の少女は、そのために命を絶ち、66歳の老女は、咄嗟には、おぞましさと怒りに駆られて「自分で着なさい」と衣服を投げつけずにいられなかったはずの要介護老人のその部分に対して金策の罠を仕掛ける。 アラフィフ女性の野外セックス場面の出てくる『ミラノ、愛に生きる』にも驚いたが、本作での麻痺老人と66歳ヘルパー女性のバスタブ・セックスの場面には、それ以上に圧倒された。バスタブのなかで全裸になったミジャが老人の股間に跨ったときに、老会長が顔面神経麻痺で引き攣らせた表情のなかで浮かべていた恍惚感が実に強烈で、いささか堪えた。無上の喜びを湛えつつ何とも物悲しく、神々しくも遣り切れないといった感じだったのだが、そのときの老会長にとっては、気を取り直して自分の切なる願いに応えてくれたように映ったはずのミジャは、掛け値なしに天女に他ならなかったであろう。一方、ミジャに対しては、孫息子ジョンウク(イ・デヴィッド)のためにはそこまでするのかと痛切を覚えたのだったが、彼女が身を売ったのは孫息子のためということではなかったようだ。 そこまでして500万ウォンを用立てておきながら、ジョンウクに警察の手が伸びてきても少しも動じないミジャを観て、僕は、彼女こそが警察に告発したのだと悟った。そして、アグネスの家の畑に至る道で拾った杏からミジャが得たのは、そういうことだったのかと強い衝撃を受けた。生まれ変わるためには、杏のように身を投げて落ちて割れて踏まれる必要があるのだから、アグネスがそうして、ミジャが老いた女体を要介護老人に売ったように、ジョンウクも警察に捕まらなくてはならないと考えたのだろうという気がしたのだ。 人が魂の浄化を必要とするときに、いかなることを願い、思うのか。むろん答えは簡単には出ないし、目を凝らしたうえで1万回見つめても、容易に解明できない点では、詩の言葉以上のものがあるだろう。アグネスの投身自殺の理由にしても、ミジャが会長にバイアグラの錠剤を飲ませて交わった理由にしても、とても一言で表せるようなことではない。だが、書けない書けないを繰り返すのではなく、書く決意をすることが詩作にとって最も重要であるのと同じく、人間の本性や人生に対して、分からない分からないで済まさずに映画にして語ることをイ・チャンドンは自らに課しているということなのだろう。 『ペパーミント・キャンディ』『オアシス』『シークレット・サンシャイン』と、これまでに観てきたイ・チャンドン作品のいずれにおいても、人間にとっての性の問題がとても深いところで捉えられていたように思うが、とりもなおさずそれが人間の本性や人生における重大事であるとの人間観ゆえのことなのだろう。とりわけ今回の作品は、その点で実にストレートだったような気がしている。ミジャのおしゃれの部分も、詩を愛好する朗読会メンバーの刑事が得意としていた猥談ネタの部分も、それゆえの設定だったのだろう。 それはともかく、いつもながらイ・チャンドン作品は、確証を与えるような説明を映画のなかでは決してしないので、ジョンウクのことを警察に話したのがミジャだという証拠はないのだが、映画を観終えた後、上映会主催者と意見交換をしていたら、僕がそう思った契機となった“警察の手が伸びてきても動じなかったミジャ”に対し、認知症のせいでバドミントンのシャトルしか目に入らなくなっている姿だと受け取っていたと知らされ、愕然とした。加えて、会長とのバスタブ・セックスも金のためだとは思わなかったと聞き、さらに驚いた。核心部分とも言うべきところの解釈がここまでずれると、流石に全く別物の物語になってしまうわけだが、改めてイ・チャンドンの凄さを思ったのは、それだけ違う解釈をしていながら、本作が凄い作品だという一点では完全に一致していたことだった。全くもって大した作家だと恐れ入った。 推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/12091701/ 推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/0d5a47a67577faafce9e6c50a1db112e 推薦テクスト:「TAOさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1822540755&owner_id=3700229 推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1853246366&owner_id=4991935 | |||||
by ヤマ '12. 9.15. 美術館ホール | |||||
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