『ミラノ、愛に生きる』(Io Sono L'Amore)
監督 ルカ・グァダニーノ


 この邦題とはいえ、よもやアラフィフ女性の陽光の下での野外セックス場面がハイライトシーンになっている作品だとは思わなかった。ティルダ・スウィントンの演じたロシア人女性エンマのアンチエイジングな官能の震えが圧巻で、アンチエイジングということではスイミング・プールで五十代後半とは思えない裸身を露にしていたシャーロット・ランプリングを彷彿させつつも、交合シーンまではなかったことを思えば、それより十歳近く若い現役感を強烈に印象づけていたように思う。野の花を交えて交互に映し出されていたクローズアップショットの肢体もボディダブルではなさそうなところが素晴らしい。オレンジ色の服を着て大きく開いた背中を見せていたときの肌の綺麗さからして、細部も自前の裸身だったような気がする。

 欲望に駆られたエンマの想念が幻想という形で挟まれる際にあたかも現実であるかのように示される展開が少し物語を判りにくくはしていたが、“彼女にとっての現実”としての真実味を感じさせて、大いに効果を上げていたような気がする。そんななかで、僕が気になっているのは、エンマの嫁ぎ先のイタリア富豪レッキ家の後継者であるエド(フラヴィオ・パレンティ)が彼女の実子だったのか先妻の子だったのか、という点だ。

 確か、彼女がロシアからイタリアに来たときに6歳だったエドという話が作中で語られていたように思うのだが、エドが実子ではなかったとするならば、彼が自分の友人アントニオ(エドアルド・ガブリエリーニ)と母親の年の差不倫に過剰なまでに激したことも、飲み込みやすくなるとともに、ますますもって本作における背徳色が濃くなってくるような気がする。顕在化していたとまでは思えないが、アントニオとの関係を察したエドのなかにあったのは嫉妬心だったのではなかろうか。そのような背徳性を思うと、エンマの夫(ピッポ・デルボーノ)の名前が、山猫でアラン・ドロンの演じた若者と同じ“タンクレディ”となっていることだけには留まらないものがあるというわけだ。レズビアンであることを手紙に書いてきていたベッタ(アルバ・ロルヴァケル)は、おそらくエンマの実子だろうと思うのだが、そうなるとエドとベッタは異母兄妹という間柄になるわけだが、やはり本作にはそれが似合っているような気がする。エドだけがロシア語を話せるのも、イタリアに来たばかりのエンマと言葉を交わせる年齢に彼がなっていたからなのだろう。

 それにしても、背広の上着を脱いで妻の肩に羽織掛け、「これからは二人で生きていこう」と声を掛けてきた 夫に「私は、アントニオを愛しているの。」と冷然と言い放ったエンマの心中には何が巣食っていたのだろう。己の振る舞いが原因でエドを死なせたことへの罪悪感が引き寄せた破壊衝動だったのだろうか。それとも、エドの死へと繋がった不倫に自分を向かわせた遠因のように思える夫への復讐衝動だったのか。あるいは、本気でアントニオの元に向かう決意を示した宣告だったのか。さらには、更年期の女性に顕著な情緒不安定のもたらした錯乱だったのか。同世代の女性たちの目にはどのように映ったのか、是非とも意見を聞いてみたいと思った。作り手の回答は、エンドロールのなかで示されていたように解せなくもないが、闇のなかから次第に浮かびでる形で映し出されたそれが、夫から「お前はもう存在しない」と宣告された後のことだとは限らないわけで、あくまで本編のなかでどのように解し、如何に映ってきたのか知りたいものだ。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1808545049&owner_id=3700229
by ヤマ

'12. 4.25. 美術館ホール



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