『シークレット・サンシャイン』(Secret Sunshine[密陽])
監督 イ・チャンドン


 人生の過酷を描いて痛烈ななかに“救い”についての模索を思い重ねているような作品だった。掛け替えのない息子を殺されて、悲嘆の淵に沈み、魂を空ろにさせながらも、荒れ荒んだりはしなかったピアノ教師イ・シネ(チョン・ドヨン)を荒れさせ、自暴自棄にまで追い込んだものが何であったかを思うとき、神なる存在を内に見出すことの危うさを改めて感じないではいられない。その一方で、信仰というよりは宗教的なものに触れることの“習慣”化によって、自動車修理工場のキム社長(ソン・ガンホ)の得たものは、やはり大したことだと思わずにいられない気にさせる奥行きが作品のなかにあって、大いに感心した。

 どう展開させていくのか、予測しがたい流れのなかで見入らされていたのに、振り返ってみると、描かれていた顛末のありようが決して凝った作劇ではない現実感のあるところに帰着していることに唸らされた。脚本と演出の卓抜した巧さを感じる。イ・チャンドン監督作品としては、ペパーミント・キャンディオアシスほどの強烈なインパクトがあるわけではないが、それだけに成熟感の高い、さすがと言うべき作品だったように思う。

 犯罪被害者に対する救済の問題は、このところ繰り返し予告編の流れている『誰も守ってくれない』を持ち出すまでもなく、日本のメディアでは、専ら犯罪者への糾弾と厳罰化を求める形でしか取り上げられない印象があるのだが、ダイレクトに“魂の救済”のほうに目を向け、日本のメディアや言論が、その効用については、半ばタブー扱いしているようにも感じられる“宗教と信仰の問題”に立ち入っているところに強い作家性を感じないではいられなかった。キリスト教がけっこう普及しているらしい韓国だからなのかもしれないが、日本ではなかなか考えにくいことで、もし日本で取り上げるとしたら、間違いなく、批判的という以上に攻撃的な視線での取り上げ方になるのではないかという気がする。

 そのうえで「神による救い」などなく、人をもし救うものがあるとすれば、それは人の存在に他ならないことをさりげなく訴えながらも、人にそのような行動を取らせ、持続させる力を与えるうえでは、宗教的なものに触れることの“習慣”化のもたらす力が侮れないことを描き出す見識の高さは、やはり確かな人間観察の元に培われたものだという気がした。

 それにしても、イ・シネと殺人犯の対面場面は圧巻だった。苦しい心の旅路を経た彼女が、当初は歯牙にも掛けていなかった信仰の道にからくも救済の光を見出して、依り縋るように没頭し入れ込んでいく姿は、ふとしたことで入信に向かう点では同じでも、キム社長の信仰との関わり方とちょうど対照的で、いかにも危うく痛ましげであった。彼女は、果たして神の教えに則って、愛息を殺害した犯人に自分が本当に赦しを与えられるかどうか不安に駆られながらも、信仰の道を選んだ自身に対し、神の教えについて真摯に立ち向かうことをもって、信仰から得た救済への感謝を神に示したくなるほどの入れ込み方をしていたような気がする。だからこそ、信者仲間から止められたにもかかわらず、“犯人との面会をしたうえでの赦し”というものを自身に試そうとしたのだろう。

 そのことを思い上がりと言うのは容易いけれども、いかにも酷だ。信仰によって得たものだと彼女が実感していたと思われる“魂の救済”は、それだけ彼女にとって掛け替えがなく、大きな意味を持っていたのだろう。それだけに、彼女が自身で赦すまでもなく、既に神が犯人に救済を与えてしまっているという現実に直面させられたときのショックは、それをも与えられた試練として彼女が受け止めるだけの余力を奪い取ってしまうほどに強烈だったわけだ。夫を奪われ、愛息を奪われ、ようやく神にまみえるに至ったというのに、あれだけ自分に試練を課した神はまた、赦しによって殺人犯に救いを与える機会を先に奪っていたことになる。神に裏切られた思いと共に、犯人が神によって自分以上に救われ、心の平穏を得て柔らかい笑みを湛えている状況への怒りに駆られているように見えた。イ・シネが、神に挑戦するが如く、怒りの決意を秘めてカン長老(イ・ユンヒ)を誘惑したのは、きっとそういうことなのだろうが、そのことでもまた彼女は、済んでのところまで追い込みながら、まさに神によって奪われたと感じずにはいられないであろうような最も手痛い形での敗北を喫する。なまじ神に救いを求め、本気で信仰に向かったことが仇になっているかのような、神の嘲りともいじめとも言うべき酷な展開だった気がする。今更ながらに神の不在などを訴えるよりも遥かに挑発的だと感じた。

 もっとも、だからこそ、この作品におけるキム社長の存在がまざまざと活きてくるのであって、そこのところが作り手の意図なのだろう。そして、この世にあるのは、神の救いではなく、人の救いでしかないけれども、“人が人に救いを与える力”は信仰のなかで育まれ強化されるものでもあるということを示していたような気がしてならない。決して宗教や信仰を否定し、見下した作品ではないところが見事だったように思う。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080710
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=832104708&owner_id=3700229&org_id=834353084
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/950e04c48a949637b2c05c682271936e
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0912_3.html
by ヤマ

'08.10.29. 美術館ホール



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