『天国の日々』(Days Of Heaven)['78]
監督 テレンス・マリック


 十年以上前にもらったビデオがありながら、初見はスクリーンでと、鑑賞の機会を待ち続けた作品なのだが、ようやく観ることができて思ったのは、今ひとつピンと来ないという甚だ残念なものだった。噂に聞いていた画面の美しさは、確かに否定はしないけれど、妙に座りが悪い気がしていた。そこで帰宅後、調べてみたらビスタサイズだとのことで、驚いた。今回、僕が観たのはスタンダード画面だったからだ。

 上映会の主催者からの「ビスタからスタンダードに焼き直したものをスタンダードで上映している」との書き込みに仰天したのだが、彼が配給元に照会したところ、この時期(70年代)のアメリカ映画は、スタンダードで撮影したものを、上映するときに上下をマスキングして、ビスタサイズにして上映するということが普通に行われていたので、極端な場合、上下をマスキングすることを前提に撮影したりしており、今回のスタンダードサイズでの上映は、言わば、アルメンドロスがファインダーを覗いて撮影した状態の再現ということになるとの手の込んだ説明があったようだ。つまり、ビスタからスタンダードに焼き直したものではなく左右が切れたりしているのではないということらしい。

 だが、作品としての映画サイズは、ビスタサイズというのがデータとしても流通していて、今回の配給会社も自社HPでの予告編はビスタサイズで流している。それを撮影時のサイズだからといってスタンダードで上映させるのは、配給会社の身勝手というか映画愛好者としては納得がいかない。これでは、言わば、レストランできちんと盛り付けもせずに調理鍋から直に食事をさせるに等しい暴挙でしかない。もし撮影時がそうだったからといって上映させるのなら、そのように告知したうえで、編集前のラッシュフィルムを流すほうが中途半端にならず気持ちいいけれど、そうはしてないわけで、いかにも言い逃れめいている。すっかり呆れた。

 あまつさえこの暴挙に対し、「スタンダードサイズでの上映ではなく、ビスタサイズ版だとどういうことになるかと言うと、例えば、望遠鏡を覗くシーンがあるけれども、望遠鏡で見た光景がスタンダードでは丸く、ビスタでは上下が切れて写るはず」とさえ言っていたそうだ。これを盗人猛々しいと言わずして、どう評するべきかと呆れを通り越して思わず笑ってしまった。映画作品なのだから、余分に映っているから得したなどというものでは決してないはずで、やはり僕としては、作品の映画サイズとして認定されている本来のサイズで見せてもらいたい。僕としては、配給側の説明はその場しのぎのもっともらしい誤魔化しであって、本当はトリミングしてあったのではないかと疑っているのだが、実際そうではなくても、切れてはいけない部分をトリミングすることも、切れるべき部分がはみ出して見えているのも、どちらも共にきちんとしたものではないという点で、同じだという気がする。なんだか朝三暮四のような、むしろ得してるんだぞと言わんばかりの、いかにも人を馬鹿にした説明に失笑を禁じ得なかった。

 映画において、フレームというものが持っている機能というか、鑑賞者に与える映像の印象の違いについて、これほど鈍感であってよかろうはずがない。物語が解ればいいというのならシナリオを読めば済むことで、それを映像にして表現するのは、映画が単にストーリーを語るためのものではないからこそだ。むろんシナリオ側もそれを前提に場面構成をしているのであって、映画の何たるかに関わってくることだから、今回の上映については暴挙だと言うほかないと感じたわけだ。少なくとも何か変だという違和感がなければ、僕がわざわざ映画のサイズを調べたりすることはなかった。


 映画作品としては、人も自然も含めて、“営み”として映し出そうとしているとは感じたのだけれども、アビー(ブルック・アダムス)の人物像が釈然としない感じが強くて、僕にはあまり響いて来なかったような気がしている。

 恋人のビル(リチャード・ギア)に言われて身売りのような結婚をしつつ、あのような中途半端な、ある意味ニュートラルな二股感を保持し続けているように感じられたところに不可解さを覚えたのだ。僕のなかでは、女性というのは割と潔いとしたものなので、いささか違和感があった。画面の座りの悪さが影響したのかもしれないが、人物造形として妙に座りが悪かったように思う。もし彼女がビルとチャック(サム・シェパード)の間を振り子のように揺れていたのなら、それはそれで了解できるのだけれども、どちらにも馴染まず離れず、それなりに心寄せているような宙ぶらりん感を保持し続けている優柔不断な感じというのが、あまり女性的ではないような気がしたわけだ。

 移り気のように映ってくれば、謎でも何でもなかったのだが、そうは見えず、無防備にビルと兄妹らしからぬ振る舞いを重ねることにしても、ビルへの熱情とも、チャックへの挑発とも見えぬ不可解さが付きまとっていたように思う。

 他方でビルに関しては、思惑違いでなかなか死なないチャックから厚遇を得ているなかで、その目を盗んでアビーと睦み合うスリリングさが刺激でもあった時期を通り過ぎてしまうと、日ごと夜ごとチャックに馴染んで来ているアビーに対しても、上機嫌で自分たちを遇してくれるチャックに対しても、何ら屈託なしに向かうことができなくなる凡人ぶりが実にわかりやすく、ほとほと情けなかった。加えて、その耐え難さに、またまた身勝手にも一人で逃げ出してしまうのだが、離れてしまうと未練が募り、また舞い戻ってくる始末。しかも少しは羽振りを利かせて、見劣りをカバーしたうえでという凡庸さに苦笑を誘われた。

 だが、そうして戻ってみても、アビーのほうでは既に過去のことになっているというのが、環境適応力というか“適者生存”能力にたけた女性の普通の姿であって、あのような今更感に対しても変わらぬ相応の想いをもって応えてくれる鷹揚さを備えた女性というのが、最も釈然としないところだった。死んでしまいさえすれば、あっさりステージ替えできる姿を印象付けていたゆえに、殊更に人物像として何だか妙に座りが悪いように感じた。

 もっとも彼女がそのように応えなければ、銃と工具による殺傷事件は起こらなくなるので、話が別物になってしまうし、誰もが感嘆し、称賛する映像美に触れもせず、このような苦言ばかりを呈するのは少々野暮というものかもしれない。語り手は、基本的に少女リンダ(リンダ・マンズ)なのだから、彼女の目に映ったアビーが謎めいていて不可解なのは、むしろ自然なことだと言えなくもない気はする。

 いずれにせよ、いろいろな意味で何とも残念な結果に終わったスクリーン鑑賞だった。




推薦テクスト:「シネマ・サンライズ」より
http://www26.tok2.com/home/pootaro/impression/diary.cgi?no=49
by ヤマ

'12. 8.28. 美術館ホール



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